猫皿の引き継ぎ
綾部凪紗は、猫用のパウチを二つ散歩バッグへ入れた。団地裏の駐輪場に、片耳の欠けた茶猫がいる。老犬のテンは毎晩その猫の皿まで歩き、食べ終わるのを少し離れて待つのが習慣だった。
獣医から戻った今夜、テンはもう立つだけで時間がかかる。明朝の処置が決まり、散歩はこれが最後になる。茶猫への餌やりを、同じ棟の佐野さんに引き継ぐ約束をした。
駐輪場まで百メートル。凪紗はテンの腹へ幅広いベルトを通し、後ろ脚を支えた。テンはいつもの角を曲がると、ゆっくりだが迷わず皿へ向かった。
茶猫は自転車の籠から降り、二人を待っていた。凪紗がパウチを開けると、魚の匂いが冷たい空気へ広がる。テンの鼻も動いたが、食べようとはしなかった。
皿へ半分だけ出す。茶猫はすぐ口をつけた。テンは二歩離れた場所で伏せ、まぶたを細くした。
佐野さんが懐中電灯を持って現れた。凪紗は残りのパウチと、餌を置く曜日を書いた小さなメモを渡した。
「雨の日は、階段の下で」
説明はそれだけにした。佐野さんもテンのことを聞かなかった。受け取った袋を自分の買い物バッグへ入れ、空になった凪紗のバッグを見た。
茶猫が皿を舐め終え、テンの鼻先へ近づいた。二匹は触れず、同時に顔を背けた。いつも通りだった。
凪紗は皿を水で軽くすすぎ、壁際の決まった場所へ伏せて置いた。明日の分は佐野さんが出す。メモの曜日に丸を一つ追加し、ペンを渡す。
茶猫は食後、いつもならテンの尻尾へじゃれつく。今夜は皿の横で前脚を舐め、テンが立つのを待っていた。佐野さんは懐中電灯を地面へ向け、二匹の間に影を作らないよう少し離れた。凪紗は空のパウチを結び、ごみ袋へ入れた。
佐野さんはパウチの切り口を小さく折る方法まで見ていた。凪紗が毎晩していたように、残りがこぼれない向きで袋を立てる。茶猫は新しい手元を一度嗅ぎ、逃げなかった。
佐野さんが次の夜の欄へ自分の印を書いた。凪紗はその線が乾くまで待ち、メモを透明な袋へ入れて壁のフックに掛けた。