町内バスで終点まで

 砺波悠希と篠宮郁子は、雨の日の散歩代わりに町内循環バスへ乗った。

 一回百円。どこで降りてもよく、降りなくても一周して駅へ戻る。

「右回りと左回り、どっち」

 悠希が訊く。

「先に来た方」

 郁子は時刻表も見なかった。

 来たのは左回りだった。

 車内には二人のほか、買い物袋を持つ老婦人と、眠っている高校生だけ。

 二人は最後列へ並んだ。

 雨粒が窓を横へ流れ、見慣れた町が少しぼやけて見える。

「ここ、前は何だった?」

 郁子が閉店した店を指す。

「写真屋」

「文房具屋じゃない?」

「その前が写真屋」

「じゃあ、もっと前は」

「知らない」

 町の記憶は、二人で持ち寄っても穴だらけだった。

 バスは住宅地を抜け、川沿いへ出た。

 いつも車で通る道なのに、座席が高いと庭や二階の窓がよく見える。

 赤い傘を干す家、柿を吊るす軒、玄関で雨を見ている犬。

「旅行っぽい」

「家から十五分」

「距離じゃなくて、見方」

「今いいこと言った?」

「記録しないで」

 終点は、小さな公民館の前だった。

 運転手に「ここで五分休みます」と言われ、二人も降りた。

 屋根つきのベンチへ座り、自動販売機で温かい緑茶を買う。

 缶から上がる湯気と、雨に濡れた土の匂いが混じった。

「最近、家にいると落ち着かない」

 悠希が言った。

「片づければ」

「そういう正論じゃなく」

「じゃあ、バス乗れば」

「毎回百円」

「安い家出」

 郁子は缶を軽くぶつけた。

 五分後、同じバスへ戻った。

 運転手は何も訊かない。今度は前の席へ座り、来た道の反対側を見た。

 高校生は目を覚まし、老婦人は途中で降りた。

 誰かの生活が一停留所ずつ町へ戻っていく。

 一周して駅へ着いた。

 二人は昼食の店を決めず、駅の立ち食い蕎麦で温かなきつね蕎麦を食べた。

 甘い油揚げと出汁の香りが、雨で冷えた指へ戻る。

「次は右回り」

「天気のいい日に?」

「晴れたら歩くでしょう」

「じゃあ、また雨の日」

 外ではまだ細い雨が降っていた。

 町を一周したのに、新しい場所へは一つも行っていない。

 それでも窓の高い席から見た暮らしの断片が、温かい茶と蕎麦の匂いと一緒に、いつもの町を少し広くしていた。