畑の境界線
久世森慶理は、夜明け前から葡萄畑へ出た。
婚約者の白石谷奈々緒は、泥のついた長靴と古い軽トラックを恥ずかしがった。
「景仁さんは有名ワイナリーの後継者よ。あなたは原料を納める農家でしょう?」
鷺沢原景仁は、金賞のラベルが付いた瓶を掲げた。
「畑は買えるが、ブランドは買えない。奈々緒には生産者より経営者が合う」
慶理は婚約指輪を葡萄箱の上で受け取った。
収穫祭の日、海外オークション会社とホテルチェーンが、地域のワインを買い付けに来た。
景仁は自分が醸造責任者だと名乗り、奈々緒を将来の女将のように紹介した。
ところが最初に壇上へ呼ばれたのは慶理だった。
久世森家は谷一帯の畑と醸造所を所有する創業家。景仁のワイナリーも、久世森家から一棟を借りてラベルを貼る販売会社にすぎなかった。慶理は筆頭株主であり、土壌研究から醸造まで担う最高責任者。自分で畑に入るため、役員報酬も豪邸も必要以上に増やさなかった。不作の年も季節労働者の賃金を下げず、古い軽トラックを直して費用を捻出していた。奈々緒は、その理由を聞いたことがなかった。
その年の最高評価を取ったワインは、慶理が不作年の葡萄を再選別して造った一本だった。競売価格は一樽一億円。海外五十社との輸出契約も決まった。
景仁は抗議した。
「そのブランド名は僕の会社が育てた」
弁護士が商標登録を示す。所有者は久世森家の醸造会社。景仁は契約外の安価な酒へ同じラベルを貼り、海外へ売ろうとしていたため、賃貸契約と販売権を失うことになった。
奈々緒は慶理の袖を握った。
「農家だと思ったから不安だっただけ。土地も会社もあるなら――」
「畑を耕す僕を捨てて、土地だけ好きにはなれないよ」
慶理は輸出契約へ署名した。畑の境界線は売却されず、農業保全信託へ移される。
一億円の落札槌が鳴り、景仁の偽ラベルが剥がされた瞬間、奈々緒が原料農家と見下した男こそ谷の土から世界ブランドまで所有する人で、選んだ後継者には借りた建物すら残らなかった。