白蝶の面会証

父が脳卒中で倒れ、言葉を失った。

娘は毎日病室へ行き、

「家へ帰りたい?」

「リハビリ、頑張れる?」

と尋ねた。

父は右手を少し動かすだけで、答えは分からない。

病室の窓に白い蝶が迷い込んだ。

娘はそっと紙へ乗せ、外へ逃がした。

翌日、同じ蝶が戻り、手首へ止まった。

蝶が羽を閉じている間だけ、目の前の人が最後にはっきり覚えた場所を、一度だけ見ることができる。

病室が消え、娘は父の記憶の中へ立った。

倒れる前日の玄関。

娘は父と喧嘩している。

父は一人暮らしを続けたい。

娘は安全のため、自宅を売って近くへ来るよう迫った。

最後に父が差し出した傘を、娘は、

「子どもじゃない」

と受け取らず雨へ出た。

記憶の父は、閉じた扉へ向かって、

「風邪をひく」

と呟いた。

家への執着でも、リハビリへの決意でもない。

娘が傘を持たず帰ったことを、最後まで気にしていた。

蝶が羽を開き、病室へ戻る。

娘は泣いた。

父の希望を知れると思ったのに、見えたのは小さな心配だけだった。

父の口元も、ほんの少し動いた。

「家へ帰りたいか、まだ分からない」

娘は父へ言った。

「私が決めない。先生や支援員と、答えられる方法を探す」

右手で一回なら「はい」、二回なら「いいえ」。

写真や文字盤も使った。

父の答えは日によって揺れた。

自宅へ帰りたい日も、施設を見てみたい日もある。

どちらかが本心で、片方が間違いではなかった。

娘は古い家をすぐ売らず、短期間の支援住宅を試すことにした。

負担も費用も増えたが、父が自分で選べる時間を少し作れた。

白い蝶は病室へ二度と来ない。

一度見た記憶を、父の全てだとは思わないようにした。

退院の日、雨が降った。

娘は傘を二本持ってきた。

一本を父の車椅子へ掛け、

「これは要る?」

と尋ねる。

父の右手が一回動いた。

娘は傘を開き、自分の物も開いた。

同じ屋根へ無理に入れず、隣に並ぶ。

蝶の恩返しが見せたのは答えではない。

言葉を失った人にも、最後まで小さな希望を尋ね続けるべきだという、一つの記憶だった。