盆踊りの輪の外

商店街の盆踊りで、輪の外に見覚えのある老人が立っていた。

数年前に亡くなった、外国生まれの靴修理職人だった。

町では皆、「角の修理屋さん」と呼び、本名を正しく言える人は少ない。

提灯の光を透かす体で、老人は踊りの輪へ入れずにいる。

「誰かが私について本当のことを一つ言うたび、一歩だけ近づける」

それが、迷った幽霊の決まりだった。

世話役の女性はマイクを借りた。

「角の修理屋さんを覚えていますか」

最初に子どもが手を挙げた。

「靴紐を左右違う色にしてくれた」

老人が一歩進む。

惣菜屋が言う。

「辛い物が苦手なのに、毎週うちの激辛を買った」

もう一歩。

「見栄だった」

老人が笑う。

郵便配達員は、

「雨の日、配達靴の底へ無料でゴムを足してくれた」

学生は、

「自転車のパンクも直した。靴屋なのに」

老人は輪へ近づく。

皆、善い思い出ばかりではなかった。

「納期を守らない」

「値段をその場で変える」

「日本語が分からないふりで値切りを無視する」

老人は肩をすくめ、一歩ずつ進んだ。

あと一歩で輪へ入れる。

けれど話せる人がいなくなった。

女性は、老人の店を閉める手伝いをした。

引き出しから、故郷の言葉で書かれた手紙を見つけたが、読めずに捨てた。

本名の書かれた名札もあったはずだ。

町の呼びやすい呼び名だけで十分だと思った。

「私たち、あなたの名前を覚えてなかった」

女性が言う。

それは老人についての事実ではなく、町の側の告白だった。

老人は動かない。

そこへ、かつて店へ通った少年が大人になって現れた。

古い靴の中敷きを持っている。

裏に、職人の本名が本人の字で書かれていた。

少年は何度も練習したらしく、ゆっくり正しく呼んだ。

老人が最後の一歩を踏み、踊りの輪へ入った。

音楽が一巡する間、老人は誰より下手に踊った。

生前、踊りへ誘われても店番を理由に断っていた。

心残りは、故郷へ帰れなかったことではなく、この町の輪へ一度も入らなかったことだったらしい。

曲が終わると、老人は中敷きへ手を振り、提灯の光へ消えた。

翌年、商店街の記録板へ本名と、皆が覚えている出来事を並べた。

立派な功績だけではない。

激辛に弱かったことも、納期が遅かったことも書いた。

人を見送るには、よい人だったと丸めるより、その人だけの不揃いな事実を、名前と一緒に輪の中へ残す方がよかった。