砂の泉の白魚
砂漠案内人ラーニャが退職金代わりにもらったのは、地図から消された小さな泉だった。
周囲は一面の砂。小屋はなく、棗椰子が一本だけ影を落としている。王都の役人は「水があるだけ幸運だ」と言ったが、泉の底には銀の点が群れていた。
魚だった。
初日の仕事を、ラーニャは釣り糸のための針を作ることに決めた。荷袋の縫い針は太すぎる。銀貨の縁から細い欠片を切り、石で削り、火で熱して小さく曲げる。
砂漠では水一滴、糸一本にも役目がある。案内人だった頃は、隊商全員の命を背負って道具を数えた。今は自分一人の夕食のために、銀片の角度だけを気にすればよい。
棗の実を潰して餌にし、泉へ糸を垂らす。
白魚は警戒心が強く、餌の周りを何度も回った。案内していた隊商なら、日暮れまでに次の井戸へ着けと急かしただろう。ラーニャは砂時計を取り出しかけ、荷袋へ戻した。今日は出発時刻も到着時刻もない。泉が与える速度で待てばよい。ラーニャは砂の上へ腹ばいになり、息を潜める。真昼の風が背中を焼き、泉の冷気が頬を撫でた。
糸がかすかに張った。
上げると、指ほどの白魚が一匹、透明な鰭を震わせていた。小さすぎて笑いそうになったが、この泉が生きている証には十分だった。
針を外したあと、ラーニャは白魚へ短く礼を言った。砂漠では命を一つ得ることが、奇跡より現実的な重みを持つ。残った魚影が驚かぬよう、泉の縁を荒らさずに立ち上がった。明日もここで暮らす者の作法だった。
石三つで炉を作り、小鍋へ泉の水を汲む。白魚と乾燥豆、棗の実を一つ入れて煮ると、甘く淡い湯気が上がった。薄焼きパンを石板へ置けば、焼ける音が乾いた夕空へ響く。
日没前、王都の魔法鏡が光った。皇太子の砂漠遠征が迷い、ラーニャに道案内を命じている。
鏡の向こうで大臣が急かした。
ラーニャは返事をせず、鍋を火から下ろした。白魚の身は小さいが、出汁は汁全体へ行き渡っている。
「聞こえているのか」
「ええ。ですが、日が沈んだ砂漠を急ぐ者は、案内人がいても迷います」
鏡を伏せ、椀を両手で包む。湯気が乾いた唇を湿らせた。
誰かを目的地へ届け続けた女は、その夜初めて、自分が辿り着いた場所で夕食を食べた。