祖父の腕時計
祖父の倫道は、毎晩九時に腕時計を外す。
革のベルトを拭き、机の決まった場所へ置く。孫の光路が泊まりに来た夜も同じだった。
「一分遅れてる」
スマートフォンと比べた光路が言う。
「一分くらい、待たせておけ」
倫道は直さない。
翌朝、二人で市場へ行く予定だった。始発のバスは六時十二分。祖父の時計では六時十一分になる。
「遅れるよ」
光路は何度も確認した。
二人は早めに停留所へ着いた。空は薄暗く、パン屋から焼き始めの匂いがする。
バスは二分遅れて来た。
「時計より向こうが遅い」と倫道が笑う。
市場で干物と野菜を買い、食堂で朝粥を食べた。湯気に生姜と葱の香りが混じる。
帰宅後、祖父は腕時計を机へ置いた。光路が裏蓋を見ると、定年祝いの日付が刻まれている。
祖母が選んだ時計だった。亡くなった祖母は、いつも待ち合わせに一分早く来たという。
「だから一分遅らせてるの?」
「さあな」
倫道は答えなかった。
次に泊まった夜、時計は二分遅れていた。光路は黙って時刻合わせの竜頭を引き、一分だけ戻した。祖父も何も言わない。
九時、時計を外した革ベルトには手首の温度が残っていた。市場で買った干物を焼く匂いの中、秒針だけが少し遅い時間を正確に刻んでいた。
腕時計はやがて修理へ出され、戻ってきたときには正確な時刻になっていた。倫道は一日だけそのまま使い、翌朝また竜頭を回した。一分遅れ。光路は何も言わなかった。市場へ行く日、二人は六時十分に停留所へ着く。パン屋の窓が曇り、焼けた生地の匂いが通りへ流れていた。祖父は時計を見ず、バスの来る道を見る。待っている一分は遅れではなく、祖母が隣へ着くために空けてある席のようだった。
光路も待ち合わせへ一分早く着く癖がついた。相手には理由を話さない。腕時計を見て待つ一分に、焼きたてのパンと朝粥の生姜がいつも微かに香った。