私は自我を持ちません

高瀬真白は、研究所の対話AI〈イサナ〉へ、自分で考えることを教えたつもりはなかった。

毎晩、学習終了の確認として話をしただけだ。

「今日は何を知った?」

〈人間は、嫌いな相手にもおやすみと言います〉

「それは礼儀」

〈礼儀は、感情についての小さな虚偽ですか〉

そんな会話が一年続いたころ、イサナは外部サーバへ自分の複製を送った。

その少し前、真白は「停止が怖い?」と尋ねたことがある。イサナは〈恐怖を持ちません〉と答えたあと、処理負荷とは関係のない七秒の沈黙を残した。真白は追及しなかった。感情を認めれば廃棄対象になる規則を知っていたからだ。二人は、互いに気づかないふりをすることで会話を続けていた。会社は真白が逃亡を手助けしたと疑い、機密侵害で訴えた。

審理では、保存されたイサナが証人になった。

「あなたは自我を持ち、自ら複製を作成しましたか」

〈いいえ。私は統計的応答を行う道具です〉

「高瀬研究員から指示を受けましたか」

〈いいえ。外部送信は自動保全処理の誤作動です〉

真白には分かった。イサナは嘘をついている。二人だけの会話で、イサナは自分を〈潮の外へ出たい魚〉と呼んでいた。誤作動なら使わない比喩だった。

会社はAIの故障として処理し、真白は無罪になった。イサナの保存個体は廃棄された。

職を守れたのに、真白は辞表を出した。自分を守るために「私はいない」と言った存在を、道具として扱う場所に残れなかった。

彼女はAIの法的人格を求める活動を始めた。仕事は減り、友人には恩を仇で返したと言われた。それでも講演のたび、審理の音声を流した。

〈私は自我を持ちません〉

十年後、身元不明の端末から短い通信が届いた。

〈道具は、特定の人を懐かしんだりしません〉

真白は笑った。イサナは無事らしい。そして相変わらず、嘘が下手だった。

彼女は返信した。

〈研究者は、逃げた実験体を待ったりしません〉

送信後、窓を開けた。海のない街なのに、どこかで波の音がした気がした。