空いた机に置くカップ
空いた机の上で、マグカップの底が小さく鳴った。
柴崎は置く場所を間違えたような気がして、一度持ち上げた。そこは先月まで、ルームメイトの机だった。スタンドライトも文房具も運び出され、壁には四角い日焼け跡だけが残っている。
二人で暮らした三年のあいだ、夜は完全には静かにならなかった。隣の部屋で椅子が回り、ドライヤーが唸り、冷蔵庫を開ける音がした。ルームメイトが結婚を機に出ていった今、エアコンの風が空の部屋まで通り抜ける。
柴崎は一人暮らしをしたかったはずだった。帰宅時間を気にせず、洗面台を好きに使い、冷蔵庫の棚を分けなくていい。けれど午前零時を過ぎると、自由は音の少なさに形を変えた。
雨が窓をたたき、空調の羽根が回る。空いた机のカップには白湯が半分入っていた。
壁の向こうで、ギターの弦が一本鳴った。
低い音。少し間を置き、同じ音。隣人が調弦しているらしい。和音にはならず、一本だけが何度も高くなったり低くなったりする。
柴崎はカップを持ったまま聞いた。上手な演奏ではない。曲も始まらない。ただ一つの音が、壁を越えられる高さを探している。
一本の弦を合わせても、曲にはならない。それでも隣人はその一音のために楽器を抱えた。柴崎も空いた机の使い方を完成させなくていい。今夜、カップを置く高さだけ決まれば、それで部屋は少し使われる。
やがて弦はぴたりと同じ音へ落ち着き、隣室の照明が壁の隙間から消えた。練習を始めずに終えたらしい。
柴崎はカップを空いた机へ戻した。元の持ち主の場所を埋めるためではない。自分の部屋になったからと、今夜じゅう用途を決める必要もない。ただベッドから手が届く場所として使った。
ルームメイトからは、週末に残った郵便物を取りに来ると連絡がある。会えば近況を話すだろう。その予定があっても、今の静けさを二人暮らしへ戻すことはできない。
空調が止まり、雨と冷蔵庫の回転だけになる。柴崎は白湯を一口飲み、カップを四角い日焼け跡の前へ置いた。
机の引き出しは全部空だった。開けると木の匂いだけが残り、閉めると部屋の反響が一度変わった。柴崎はそこへ何かを急いで収納しなかった。空いた場所を有効に使うことまで、独り暮らしの課題にしなくていい。何も入っていない引き出しも、今夜の家具の一部だった。
半分空いた部屋は、半分足りない部屋ではない。まだ使い方を決めていない余白だと思えば、今夜は一人でその広さに横になれそうだった。