空席の黒い鞄

午後十一時、試合後のスタジアムで、清掃員が三塁側の座席下に黒い鞄を見つけた。

「忘れ物ですよね。開けて名札を見ます」

警備員の荒巻悠斗は清掃員を止め、周囲三列を立入規制にした。鞄は膨らみ、内側から十秒おきに電子音がする。飲み物も落とし物も多い夜だったが、音の理由が分からない物を、人の多い通路へ運ぶことはできない。

荒巻は無線交信で座席番号と発見時刻だけを伝えた。「危険物」と断定すれば現場が混乱し、「ただの忘れ物」と言えば誰かが触る。

監視映像を戻すと、試合終了後、救護ボランティアの女性がその席へ鞄を置き、倒れた観客の介助へ走っていた。その後、別の出口から搬送に付き添い、戻っていない。

その映像には、途中で別の観客が鞄へ手を伸ばし、すぐ引っ込める場面もあった。荒巻は所有者が分かっても、中身が当初のままだとは決めつけなかった。

救護本部へ照会すると、同じ形の医療鞄が一つ不足していた。電子音は保冷温度の警告らしい。しかし荒巻は、映像と説明だけで規制を解かなかった。担当者を現場へ呼び、鞄の外側にある管理番号を読ませる。番号が一致し、所有者が鍵を使って開けた。

中には薬品ではなく、予備の冷却材と血圧計が入っていた。音は冷却材の温度が上がった知らせだった。

清掃員が「やっぱり忘れ物だった」と笑う。

荒巻は落とし物処理の袋へすぐ入れず、座席周辺の清掃順を最後へ回した。規制を解いた直後は、確認に集まった人や機材が残り、床も濡れている。安全になった物の周囲で転倒事故が起きることがある。

救護の女性は、搬送先から戻ると深く頭を下げた。

「人を追いかけて、鞄を忘れました」

荒巻は責めず、救護班が移動する時は鞄の番号を二人で読むよう提案した。命を助ける道具ほど、置いた本人が忙しい。

午前零時、規制テープを外すと、照明が一列ずつ消えた。

その暗がりへ、芝の整備班が大型機械を入れてくる。

荒巻は黒い鞄を救護本部へ渡し、今度は誰もいないはずのグラウンドへ向かった。