窓を三度叩く
瀬名航成は山岳救助隊の新人で、行方不明者の捜索中に雨裂山の禁足域へ入った。古い避難小屋を使う前、隊長は無線で一つだけ念を押した。
《禁足小屋の窓を、内側から三度叩いてはいけない》
理由を聞く暇はなかった。小屋の壁には救助者の名札が何十枚も打ちつけられ、窓側から読める向きになっていた。室内には椅子が一脚だけあり、座面は外へ向いている。雷雨で無線が途切れ、隊員は小屋の内外に分かれた。
救助チャット記録
21:06 隊長:全員位置報告
21:07 航成:小屋内。一名
21:08 隊員B:小屋が見つからない
21:09 航成:ライトで合図する
21:10 通信断
窓は泥で曇り、外から小屋が見えない。航成は隊員Bへ場所を知らせるため、拳でガラスを三度叩いた。一連の合図をしたのは一度だけだった。
すぐに、外から三度返ってきた。無線には隊長の声で《開けろ》と入ったが、隊長は直後のチャットで「まだ谷の反対側だ」と送ってきた。窓の曇りには外側から指で《新人一名収容》と書かれた。
航成は窓を見なかった。だがガラスに映る室内には、椅子へ座るもう一人の航成がいて、外側を向いたまま指で三を示していた。隊長の教えを思い出し、夜明けまで床に伏せた。雨音の間、窓の外を何人もの爪が横切った。朝になると小屋は消え、航成は地面に寝ていた。右拳には窓枠の形をした青痣が残っていた。隊員Bは別の尾根で無事に発見された。
報告書には、禁足域への誤進入と低体温による幻覚と書かれた。隊長は「返事はしたか」と聞いた。航成が「見てもいません」と答えると、「叩いた時点で返事だ」と言った。
自宅へ戻った夜、ノートパソコンに救助チャットの通知が出た。通信断の続きが届いている。
21:10 不明:聞こえた
21:10 不明:三度、聞こえた
現在 不明:今度はこちらが内側です
同時に、窓ガラスが外から三度鳴った。
航成はカーテンを開けなかった。だが玄関モニターが自動で点灯した。映っているのは廊下ではなく、部屋の中だ。窓の外に立つ航成自身が、泥だらけの拳を上げている。
顔認証の枠が緑になった。
《居住者を確認しました。窓側から解錠します》
窓の鍵が、内側からゆっくり外れた。