終点のない路線

大河内勘一は、なくなった町のバス運転手だった。

海底地震で沿岸の白浪町が沈み、住民の半数が家族や家を失った。集団性外傷を抑えるため、国は希望者から「町に関する記憶」を削除した。地名、道、祭り、失った人々。勘一も施術を受けた。

目覚めた彼は、白浪町という文字を読めても、自分が二十八年走った路線を知らなかった。新しい内陸都市へ移り、循環バスの運転手になった。

ところが毎日、同じ交差点で右折しそうになった。現在の路線は直進なのに、腕が勝手にハンドルを切る。停留所のない空き地でブレーキを踏み、誰もいない歩道へドアを開けかけた。

会社は危険だとして休職を命じた。

勘一は自宅で古い運行表を見つけた。〈白浪駅―魚市場―灯台下―診療所―高台団地〉。文字は意味を持たない。それでも指で順になぞると、胸の中でエンジン音がした。

ある夜、勘一は廃車予定の小型バスを借り、身体が曲がりたがる道を走った。内陸都市の道路は、移住者が迷わないよう、沈んだ町と同じ配置で造られていたのだ。本人たちには知らせず、生活の癖だけを受け止める設計だった。

空き地で停車すると、ベンチに座っていた老女が手を上げた。

「灯台下まで」

勘一は、その停留所が存在しないと知識では分かっていた。だが口から自然に言葉が出た。

「次は魚市場ですよ」

老女は泣いた。

二人だけのバスは、夜の新しい町を走った。空き地が市場になり、給水塔が灯台になり、病院の前が昔の診療所になった。勘一には何も見えない。老女が語るたび、その場所に知らない懐かしさが灯った。

翌週から、会社は月に一度だけ「旧路線便」を認めた。乗客は皆、町の記憶を削除した人々だった。誰も正しい停留所を説明できないのに、身体は降りる場所を知っていた。ドアが開くと、理由もなく笑ったり泣いたりした。

勘一は車内放送を自分で作った。

「次は、名前を忘れた場所です。お降りの方は、思い出さなくても結構です」

終点で乗客を降ろし、空の車内を振り返る。誰を運んでいたのか、昔の勘一には分からない。

それでも彼は、失われた町が地図ではなく、人々の曲がり方や立ち止まり方の中に残っていると知った。

帰庫するバスは、いつも少しだけ潮の匂いがした。