終電は一本前に帰る
経営コンサルタントの城ヶ崎智也は、終電の窓に映る自分の顔しか知らなかった。
朝は混雑した車内で眠り、夜は黒い硝子を見つめる。駅へ着くのは午前零時四十七分。改札を出る客は、いつも六人か七人だった。
八人目は、駅前のベンチの下にいた。
白い靴下を履いたような黒猫で、終電が着くと姿を見せ、改札から出てくる人々を順番に嗅いだ。智也の番になると、なぜか家の近くまでついてくる。角を三つ曲がると、また駅へ戻っていった。
「誰かを待ってるのか」
駅員に聞くと、「たぶん電車の音が好きなんでしょう」と言われた。近所の餌場を行き来する地域猫らしい。
智也は猫を「終電」と呼ぶようになった。
終電に会うために遅く帰ったわけではない。けれど、改札の先に黒い耳が見えると、長い一日に小さな終止符が打たれた。
「今日は会議が四つ」
猫は歩く。
「資料は全部やり直し」
猫は振り返らない。
「聞いてる?」
白い足だけが、街灯の下を一定の速さで進んだ。
冷え込んだ夜、終電は駅へ戻らなかった。
智也のアパート前で丸くなり、震えている。駅員と近所の人へ連絡し、朝までのつもりで部屋へ入れた。
猫は暖房の前ではなく、智也の脱いだコートの上を選んだ。外気と電車の鉄の匂いをまとった毛が、布へ沈む。
翌朝、智也が出勤しようとすると、終電は玄関で座った。
扉を開けても出ない。
「帰らないのか」
猫は欠伸をした。
病院で調べ、地域の世話人と相談した。高齢になり外で暮らすのが心配だったという。智也が飼うと申し出ると、「あの子が決めたなら」と笑われた。
同居後、終電は午前零時を過ぎると玄関で待った。
遅い日は、帰宅しても背を向ける。一本早い電車なら廊下まで迎えに来る。さらに早ければ、喉を鳴らして足元へ転がった。
評価基準は明快だった。
ある金曜、智也は上司へ「続きは月曜にします」と告げ、九時台の電車へ乗った。
窓には夜景が映り、その手前に、少し疲れた自分の顔がある。けれど今日は、その先に待つものを知っていた。
帰宅すると、終電は台所まで走り、餌の器の前で止まった。
智也は自分にも生姜入りのスープを温める。湯気と猫の毛が触れ合う狭い食卓で、時計はまだ十時半だった。
一本前どころではない夜が、思ったより長く、温かく残っていた。