結婚しない人の着信

翠子は、治親からの着信を三度見送った。

友人の結婚式で「私は独身でいる」と口にしたとき、隣にいた治親が黙った。彼は以前から家庭を持ちたいと言っていた。翠子は彼が好きだったが、結婚を望まない自分が気持ちを伝えれば、いつか変わると期待させる。周囲から「相手ができれば考えも変わる」と言われ続け、恋まで説得の材料にされるのが嫌だった。それが言えない理由だった。

披露宴会場のクロークは二十三時で閉まる。引き出物の紙袋には「末永く」の文字が金色で印刷され、翠子にはそれさえ返事を迫る言葉に見えた。翠子が預けたコートを取りに戻ると、治親が入口で待っていた。

「電話、出て」

「結婚しないって言ったでしょう」

「聞いた。だから話したい」

「話しても変わらない」

閉館作業で回転扉が止まり、二人はホテルの内側に残された。警備員が来るまで、狭いロビーで向き合うしかない。清掃機の音が近づき、祝宴の花だけが片づけられずに残っていた。白いリボンが空調に揺れていた。

「俺は式や名字の話をしたいんじゃない」

「でも、いつか子どもがいる家がほしいって」

「今も可能性は捨ててない。翠子も今の考えを変えなくていい」

「じゃあ、どうするの」

「答えが違うから、会うのをやめるのか。一緒に考えるのか。そこを話したい」

翠子は、正解をくれる言葉を待っていたのだと気づいた。治親が全部諦めれば罪悪感が消え、自分が変われば怖さが消える。けれど大人の恋には、今夜だけで消える矛盾ばかりではない。違いをなくしてから始めるのではなく、違うまま話せるかを確かめる時間もある。

「結婚しない」

二度目は確認だった。

警備員が回転扉を動かす。外は小雨だった。

翠子は三度目を、終わりの言葉にしなかった。

「結婚しない。でも、あなたからの連絡まで終わらせたくない」

治親は頷いただけで、傘を開いた。

翠子は返そうとしていた彼の部屋の合鍵を、コートのポケットへ戻した。次の日曜の朝食予約も、キャンセルしなかった。