網目の向こうの風

エアコンをつけると、冷気より先に埃の匂いが降りてきた。

余命を告げられて帰宅した日の夕方、土井原郁美はすぐ電源を切った。

六月なのに気温は三十度を超え、部屋へ入ると熱が床から上がってきた。ルームメイトは仕事中で、卓上扇風機だけが首を振っている。壁のエアコンをつけると、冷たい風より先に埃の匂いがした。

二週間前から「週末に掃除」と付箋を貼っていた。週末は二度過ぎた。余命の説明を聞いた帰り道で、その付箋だけを思い出した。

郁美は電源を切り、ぐらつかない食卓の椅子を運んだ。足元に病院の鞄を置きっぱなしにしていたので、壁際へ寄せる。前面パネルを開けると、二枚のフィルターが灰色になっている。網目が見えないほどではないが、指でなぞると一本の線が引けた。

留め具を片方ずつ外すと、軽いはずのフィルターが埃の重みで少したわんだ。埃が落ちないよう新聞紙で包み、浴室へ運ぶ。最初に掃除機で表面を吸うと、灰色が少し薄くなった。説明書には、埃のついた側の反対から水を流す、と書いてある。

シャワーを弱くし、裏から当てる。黒い水が筋になって流れ、網目が一列ずつ現れた。郁美はブラシを使わず、指の腹で縁だけ洗った。

ルームメイトから電話が来た。

「診察、終わった?」

「終わった」

「声、変じゃない?」

「エアコン掃除してる」

「今?」

「暑いから」

電話の向こうで少し黙り、「帰ったら聞く」と言った。郁美は「うん」と返して切った。それ以上の言葉は、濡れたフィルターには置けなかった。

水が透明になるまで両面を流し、タオルで挟んで水気を取る。完全に乾かすには時間がかかるので、扇風機の前へ立てた。郁美はその前に座り、網目越しの風を受けた。埃の匂いはなく、濡れたプラスチックの匂いだけがした。

三十分後、表と裏の四隅を指で確かめる。水滴は残っていない。二枚を本体へ戻し、パネルを閉じる。電源を入れると、風が網目を抜けてまっすぐ降りてきた。

郁美は付箋を剥がした。エアコンの風には、もう埃の匂いがしなかった。