耳を使わない審査

匿名作曲コンクールの最終審査で、聴覚を失った折笠山依央が審査員長を務めた。

批判は多かった。音の聞こえない人に音楽が選べるのか。

最後の応募曲『FLOOR』には、映像も譜面もない。会場で一回だけ演奏し、作者は終演後も匿名を保つという。

イントロが始まる。観客には低い電子音が聞こえたが、依央のモニターに波形はほとんど出ない。代わりに、椅子の脚から細かな振動が上がってきた。

応募票の余白に一文。

「聞こえなくても」

依央はその言葉が嫌いだった。事故で耳を失ってから、「音を失っても音楽は好きでいられる」「耳が使えなくても頑張れる」と、慰めの形で何度も浴びせられた。欠けたものを前提にされるたび、身体が採点される気がした。

Aメロで振動が左右の足へ移る。右に短く、左に長く。かつて依央が教えた生徒・荒神楽ユキとの合図だった。ユキは難聴の母へ曲を伝えるため、床を叩いて作曲していた。依央は当時、「会場では伝わらない」と応募を退けた。

サビ直前、ステージにユキが現れる。名乗らず、靴を脱いで床へ両足を置く。

「聞こえなくても」

巨大な低音が会場を揺らす。だが旋律の本体は、耳に届くスピーカーではなく、床下の振動板で奏でられていた。依央の足裏には、明確な和音とリズムが流れる。聴衆の耳には単調だった音が、身体の中で色を変える。

観客が戸惑う中、依央だけが泣いた。ユキは彼女に同情して曲を書いたのではない。耳を使う聴衆のほうを、音楽の一部から締め出したのだ。

最後の一音で、すべてのスピーカーが消える。床だけが震え、応募票の文字がもう一度光る。

「聞こえなくても」

最後だけ、それは欠落を慰める言葉ではなかった。

耳に届かなくても、これは完全な音楽だ。理解できない側が不完全なのだという宣言だった。

依央は採点札を上げる。満点。

作曲者欄の匿名表示は消えない。代わりに、ユキが手話で伝える。

――名前ではなく、床を覚えてください。

拍手が始まるより先に、依央は靴を脱いだ。最後の余韻を、誰より長く聞くために。