菫の名札
八神千紗は、押花店すみれ野で、小さな栞を受け取った。薄い紙の間に、紫の菫が一輪だけ封じられている。亡くなった叔母が、生前に注文していたものだった。
注文票の受取人欄には、千紗の旧姓が書かれていた。叔母が注文したのは、千紗が離婚を決めるより前だ。そのころ千紗は、夫の姓で働き、夫の姓で病院へ通い、離婚後も職場では変えないつもりだった。名刺もメールアドレスも作り直すのが面倒だし、周囲に理由を説明するのも嫌だった。離婚した人として見られるより、何も変わっていない顔で働くほうが楽だと思っていた。
叔母だけは、結婚してからも千紗を旧姓で呼び続けた。祝福していないのではなく、長年の癖が抜けないのだと笑っていた。離婚を相談する前に叔母は亡くなり、千紗はその呼び方を訂正できなかったことを、今では救いのようにも、逃げ道のようにも感じていた。
店主は注文票と栞を見比べ、受取確認の欄へ印を押した。千紗が「名字が違います」と言うと、店主は新しい票へ書き直すのではなく、古い票の姓を細い紙で隠した。白い紙片の上へペンを置き、千紗が自分で書けるようにした。
千紗は今の姓を書こうとした。けれどペン先が触れる直前、止めた。叔母が何を望んだかは分からない。旧姓へ戻れという遺言でもない。菫はただ、注文された時期のまま乾いている。
彼女は紙片へ、離婚後に使うと決めていた旧姓を書いた。店主は文字を確かめると、栞のリボンをその長さに合わせて切った。長すぎた紫の端が、作業台へ短く落ちた。
会計の領収書にも、千紗が書いた姓がそのまま転記された。店主は「お戻りになるのですね」とも、「似合います」とも言わず、栞を透明な袋へ入れた。花の表も裏も見える包装だった。
店を出て、千紗は会社の人事システムを開いた。氏名変更申請の欄へ同じ姓を入力し、戸籍書類の提出予定日を選ぶ。
確認ボタンを押すと、画面の上部に新しい名前が表示された。叔母に呼ばれたからではなく、自分で書いた名前だった。