薬棚のない部屋
柴崎玖美は、実家から届いた薬学書を一箱ずつ開けた。
有機化学、薬理学、国家試験対策。どの本にも母の付箋が貼られ、〈ここは必須〉〈三回読む〉と細い字で書かれている。玖美は薬学部を二年で辞めてから、箱を開けずに六年間保管していた。
今夜、母へ電話をかけた。
「本、処分するね」
母はすぐに言った。
「待って。来年、復学制度が変わるかもしれないから」
「戻らないよ」
玖美は今、昆虫標本の修復をする研究補助員として働いている。常勤ではなく、一年ごとの契約。母は職業を尋ねられるたび「大学へ戻る準備中」と答えていた。
「いつまで不安定なことを続けるの」
「来年度も契約が決まった」
「薬剤師なら一生使える資格なのに」
玖美は一冊を開いた。最初のページに、母が買った白衣の領収書が挟まっている。サイズ欄には、玖美が当時着ていた服より一つ小さい数字。母は「白衣はすっきり着るもの」と交換させなかった。
玖美はその白衣を着るたび、息を浅くした。薬学が嫌なのか、窮屈な服が嫌なのか、自分でも区別できないまま講義へ通った。箱を閉じた六年前から、ようやく呼吸だけは戻っていた。
「資格を持っていない今の私を、待機中って呼ばないで」
「じゃあ親戚に何て言えばいいの」
「標本を直す仕事をしてる、でいい。契約社員だと付け足して評価しなくていい」
母は「心配だから」と言った。
「心配してもいい。でも、復学の資料は送らないで。送られたら受け取らず返す」
玖美は宅配買取の申込書へ、二十二冊と書いた。付箋を剥がすか迷ったが、そのままにした。母の指示を一枚ずつ取り除く作業まで、自分が背負う必要はない。
受話口の向こうで、母が静かに尋ねた。
「虫の本は、何冊あるの」
「数えたことない」
「薬の本より多い?」
玖美は部屋の棚を見た。翅の修復法、保存液、博物館資料。色も大きさもばらばらだ。
「ずっと多いよ」
母はそれ以上、復学と言わなかった。
翌朝、薬学書の箱を集荷へ渡した。空いた棚へ新しい標本ケースを置く。薬棚になる予定だった場所に、玖美が選んだ小さな翅が並んだ。