蛙のいる夏、冷たいトマト汁

 若松千紘の父、正章は、夏になると冷たいトマト汁を作った。

 畑の完熟トマトを湯剥きし、出汁と一緒に潰して冷やす。千紘が町を出て舞台の仕事をすると告げたとき、父は「畑は待ってくれん」としか言わなかった。応援されなかったのだと思い、それから帰省の回数は減った。

 父の葬儀を終えた夏、千紘は畑を譲る前に、最後のトマトを収穫した。水桶のそばでは、青い蛙が一匹、じょうろの取っ手に座っている。千紘は青丸と呼ぶことにした。

 父のレシピはどこにもなかった。近所の人に訊いても、「潰して冷やすだけ」と言う。

 一度目は水っぽく、二度目は酸っぱかった。畑の物置を探すと、古い魔法瓶に紙が巻かれていた。

〈昆布水を少し。塩は食べる直前。千紘は冷やしすぎると腹を壊す。氷は一個〉

 その下に、舞台の公演日がいくつも書き写してあった。父は一度も観に来なかったが、日付は知っていた。

 千紘はトマトを手で潰し、昆布水を加えた。冷蔵庫で冷やし、器へ氷を一個だけ落とす。最後に塩と、刻んだ青紫蘇。

 匙を運ぶと、酸味のあとに畑の甘さが広がった。冷たすぎず、喉を過ぎる頃には体温へ戻る。

「畑は待ってくれなかったけど、覚えてたんだ」

 千紘が言うと、青丸がじょうろから水桶へ跳び、ぽちゃんと音を立てた。

 父の言葉が足りなかったことは変わらない。千紘が帰らなかった年月も戻らない。それでも、知らなかった応援が、魔法瓶の紙に小さく残っていた。

 千紘は畑を継ぐ人へ、トマト汁の作り方も渡すことにした。氷は一個、と忘れず書く。

 夕暮れ、青紫蘇の香りが指先に残った。畑の土は昼の熱を抱え、蛙の声の中で、空になった器だけが涼しく光っていた。

 千紘は熟れた実から種を取り、封筒へ入れた。都会のベランダで育つかは分からない。それでも来年、舞台の稽古が終わった夜に、自分で採れた一個を冷やしてみたい。青丸は葉陰へ移り、空いたじょうろだけが父の道具棚に残った。

 翌朝、畑を出る前にもう一杯作った。今度は塩をほんの少し減らし、父の魔法瓶へ注ぐ。蓋を閉めると、冷たい器の内側へ夏の匂いが丸ごと収まったようだった。