裁縫箱の糸
仕立屋の糸乃は、猫の「ボタン」を仕事部屋へ入れない。
針や糸を飲み込むと危ないからだ。扉の外に猫用の籠を置き、作業中はそこで待たせる。
ボタンはおとなしく籠へ入るが、扉の隙間から前脚だけを伸ばす。糸乃が歩くたび、靴下へ触れようとする。
ある日、幼稚園の発表会用の衣装を頼まれた。黄色い尻尾のついた猫の衣装だった。
糸乃は本物の猫を参考にしようと、ボタンを部屋へ入れた。机の糸はすべて片づけ、床へ座って尾の動きを眺める。
猫の尾は思ったより真っ直ぐではない。先だけ曲がり、気分によって太さも変わる。
布の尻尾へ細い綿を詰め、先端を少し曲げた。ボタンはその横で寝始める。
夕方、依頼主の子どもが試着に来た。尻尾を揺らして部屋を歩くと、ボタンが後ろから追いかけた。
「猫になれた?」
子どもが訊く。
「本物が追いかけたから、たぶんね」
発表会後、衣装は返却されなかったが、余った黄色い布を小さなクッションにした。籠へ入れると、ボタンはすぐ上に乗った。
数日で黄色い布には白い毛がついた。糸乃は粘着テープをかけず、そのままにした。
扉の外で猫が眠り、内側では鋏が布を切る。開け閉めのたび、アイロンの蒸気と温かな毛の匂いが入れ替わった。一本の糸もなくても、二つの部屋は猫の白い毛でつながっていた。
冬になると、糸乃は黄色いクッションへ薄い毛布を縫いつけた。ボタンは縫い終わる前から上に乗り、最後の一辺を閉じられない。仕方なく猫を載せたまま手縫いする。針を遠くへ抜き、指で糸を確かめるたび、ボタンの腹が上下した。仕上げの糸を切ると、猫はようやく目を開ける。扉の内側にはアイロンの熱、外側には冬の日なた。二つを隔てる敷居へ、白い毛が一本だけ横たわっていた。
糸乃は白い毛を拾い、裁縫箱の小さな空きへ入れた。針でも糸でもないものが一つ混じる。蓋を閉じると、木箱の中に猫の日なたの匂いがこもった。