解約理由を一つ選んでください

田所洋平は毎朝、亡父の《追憶契約》を一件再生する。解約には、契約者本人しか知らない記憶を一つ提出し、所有者確認の証拠として永久削除する必要がある。それがなりすまし解約を防ぐ規則だった。

父の孝蔵が死んで一年、洋平は月額九千円を払い続けていた。請求日は父の月命日と同じで、そのたびにまだ何かをしてやれている気になった。釣り糸の結び方、酔って歌った古い応援歌、母に隠れて食べた深夜のラーメン。再生する回数は減ったが、解約画面を開くたび、どれか一つを自分で殺すようで閉じてしまった。

妹の深雪が入院した。

治療費は保険外で、毎月あと八千円必要だった。深雪は「お父さんの契約を止めて」と言った。

「私は生きてるから」

洋平は腹を立てた。けれど、その言葉が正しいことも分かった。

病院の待合室で解約を押す。本人確認用の記憶を選ぶ画面が開いた。写真や公的記録に残る出来事は使えない。秘密で、具体的で、感情反応の強いものが必要だ。

候補は三件。

《父が初めて病名を告げた夜》

《母の葬儀後、二人で泣いた車内》

《最期に握った手の温度》

どれも差し出せなかった。

洋平は自由入力を選び、幼い頃、父が一度だけ家を出ようとした夜を思い出した。玄関で父の靴を隠し、「行かないで」と泣いた。父は朝まで抱いてくれた。家族の誰にも話していない。

認証は通った。

〈この記憶を永久削除し、契約を終了しますか〉

深雪の病室から、点滴交換の通知が届いた。

洋平は承認した。

契約一覧から父の名が消えた。月額料金も止まった。幼い自分がなぜ父の靴を見ると胸苦しくなったのか、もう分からない。

数日後、深雪が言った。

「お兄ちゃん、ありがとう。お父さんなら同じことしたと思う」

洋平は笑った。

「父さんって、そんな人だったっけ」

深雪の顔が固まった。

解約に差し出したのは一件だけのはずだった。だが、その夜を失うと、父が家族のために残ったという意味まで消えていた。

洋平は治療費を振り込んだ。振込名義の田所洋平という文字だけが、父から受け取った名字として残った。