訂正は一面に載らない
グラフの線は、気持ちがいいほど右肩上がりだった。
二十代女性の賃金が上がったという朝刊サイトの記事。データ編集部の吉良萌絵は、これを最後に確認して公開し、退職届を送る予定だった。グラフの線は大きく右肩上がりで、見出しには〈男女差、過去最小〉とある。
萌絵は、元データの対象者欄で手を止めた。今年だけ、正社員に限定されている。前年までは非正規雇用も含む。母数をそろえると、差は縮まるどころか、わずかに広がっていた。
記事に添えられた写真には、笑顔で会議をする女性たちが写っている。萌絵自身も契約社員から正社員になったが、同じ机で働いていた二人は更新されず、統計からも職場からも消えた。その経験が、退職届を書く最後の一押しだった。
「見出しはもう編成会議を通った。公開して、後で注記を足そう」
デスクは言った。公開まで十分。
萌絵はグラフを非公開へ戻した。
「注記で直るのは、数字の意味が変わらないときです。今回は結論が逆です」
正社員だけの推移と、全雇用者の推移を二本に分ける。記事本文も、賃上げの恩恵が雇用形態で異なる内容へ書き換えた。担当した新人記者の藍が、顔をこわばらせる。
「私の記事、全部だめですか」
「だめなのは記事じゃなく、比較条件。元データを残していたから直せた。次はグラフを作る前に、母数を声に出して確認しよう」
萌絵は修正履歴を消さず、変更理由を読者にも見える箱へまとめた。デスクは「訂正欄を大きくする必要はない」と渋ったが、萌絵は見出しと同じ位置に条件変更を載せた。
公開は二十五分遅れた。最初の反応は批判ではなく、非正規で働く読者からの「自分が統計から消えていない」という短いコメントだった。
デスクは次号から、萌絵を数字記事の担当から外すと言った。
「公開を遅らせる人には任せられない」
萌絵は記事の公開時刻と修正履歴を保存した。速く誤るための担当に戻るより、確かめる時間ごと仕事にしたい。
退職届を送信し、調査報道チームから依頼されていた最初の検証案件へ〈受注〉を返した。