証拠を刻む白い時計

 黒崎芹香は、上司に言われた言葉を正確に思い出せなくなっていた。

 二人きりの会議室で容姿や交際について繰り返し触れられた。日付を記録し、人事へ相談しようとすると、息が苦しくなり、肝心の文言が霧に隠れる。証拠がないなら誤解だ、と自分に言い聞かせる日もあった。

 白河棗は、汚れ一つない白衣を着た時計職人だった。机も工具も白く、唯一、胸ポケットから黒い糸が一本垂れている。

「痛みと事実は別部品」

 棗は芹香の腕時計を外し、白布の上へ置いた。

「痛くなくしたら、忘れてしまいませんか」

「忘れる修理はしない。混線をほどく」

 裏蓋を開けた瞬間、会議室の匂いが蘇り、芹香の呼吸が止まりかけた。棗は時計より先に作業灯を消し、扉を開け、出口が見える席へ彼女を移す。

「続けられます」

「続けるかは、体が決める。私は待つ」

 冷淡な口調のまま、温かいカップを手の届く位置へ置いた。

 呼吸が戻ると、棗は記憶を二つに分けた。黒い糸には、日時、場所、発言、同席者の有無だけを刻む。白い糸には、震え、吐き気、恥ずかしさ、逃げたい感覚を移す。

 事実は鮮明になった。上司が言った語句、会議室を予約した時刻、廊下ですれ違った社員。痛みは消えないが、思い出すたび同じ強さで襲うことはなくなった。

「これ、提出できますか」

 棗は黒い糸を紙の上へ走らせ、時系列の記録を作った。

「これは補助です。あなたの代わりに証言はしない」

「やっぱり、私が話さないと」

「話す、書く、代理人を立てる。選択肢は一つじゃない」

 封筒には、社外相談窓口と女性相談センターの連絡先も入っていた。修理代の明細には「付き添い一回・無料」とある。

 芹香が黒い糸を指すと、棗は胸ポケットからそれを切り離し、腕時計のベルト裏へ縫い付けた。

「痛みと事実は別部品」

 最初は、傷ついた気持ちを脇へ置けという意味に聞こえた。今は違う。痛みに耐えられない日があっても、起きた事実まで消えないように分けて守るのだ。

 店を出た芹香は、人事への送信予約を翌朝十時に設定した。白い時計の内側で、黒い糸だけが、もう震えずに時刻を刻んでいた。