誰も押していない停止ボタン
開園三十分前、遊園地の大型コースターが、無人のまま非常停止した。
保守主任の斑目沙羅が制御室へ入ると、若い整備員が安全装置の解除キーを持っていた。試運転の車両は最初の坂の途中で止まり、雨雲が近づいている。営業部長は「客が乗る前だから、解除して駅まで戻せ」と急かした。
沙羅はキーを受け取ったが、回さなかった。誰も押していない非常停止ほど、押されたものとして扱わなければならない。
制御画面では、車両位置を確認するハートビートが一秒だけ途切れ、安全ループが開いていた。二重化された経路の片方は正常だが、もう片方が断続的に消える。片方が生きているから走れる、という考え方もできる。だが冗長性は、壊れたまま運転するためではなく、一度安全に止める時間を稼ぐためにある。
沙羅は乗客用の避難階段を上り、車両周辺に作業員がいないことを確認した。次に通信経路を区画ごとに切り離す。山頂付近の監視カメラをつないだ機器から、大量の不要信号が流れ、安全制御の通信を押しのけていた。昨夜の映像更新で設定を誤ったのだ。
営業部長は無線で「カメラを切れば走れるだろう」と言った。
「走れます。でも山頂が見えないままです」
沙羅は予備カメラへ切り替え、不要信号を遮断し、安全ループを最初から点検した。車両をいきなり駅へ戻さず、ブレーキ区画ごとに低速で進める。各区画で一度止め、次の信号が正しく返るのを二人で確認した。動いたという事実より、止まるべき場所で止まれることのほうが重要だった。空の座席が一列ずつ朝日に現れ、最後にホームへ滑り込んだ。
開園は十二分遅れた。入口では音楽が鳴り、客たちがゲートの前で待っている。営業部長は謝罪文を用意しながら、沙羅に小さく言った。
「止める判断は、売上表には載らないな」
「事故も載せないために止めました」
安全確認の札を掛け替えた瞬間、園内放送が始まった。
同時に、観覧車から無線が入る。「一台だけ扉センサーが閉を返しません」
沙羅は解除キーをポケットへ戻し、今度も使わないまま観覧車へ向かった。