赤い帳簿を閉じない

「来月合わせればいい。今日は帳簿を閉じましょう」

経理部長の郷原が、赤い革表紙の元帳へ手を置いた。

小さな出版社《葉庭書房》の社長、結城琴葉は、その言葉を一度受け入れた。著者印税の不足額は百二十万円。郷原は入金日のずれだと説明したが、実際には重版代金を架空の印刷会社へ流していた。人気作家は契約を解除し、書店は返品を開始。資金繰りは一気に崩れ、葉庭書房は創刊十周年を目前に破綻した。

廃刊号の校了紙を抱いて眠った琴葉は、決算締めの夜へ戻っていた。

編集部には、発売前の見本本が積まれている。著者も校正者も装丁家も、まだ世にない一冊を信じて働いた。その対価を「来月」で薄めることは、本そのものを裏切るのと同じだと、今の琴葉には分かる。

郷原が赤い帳簿を閉じようとする。

「来月合わせればいい。たった百二十万です」

琴葉は表紙を押さえた。

「閉じません。一円合うまで帰らない」

「社長は編集の人だ。数字は私に任せてください」

「任せた結果を、今夜は確かめる」

重版部数、取次入金、印刷請求。三つだけを並べると、同じ書籍の増刷が二社へ二重発注されている。片方の印刷会社には住所も機械もなく、代表者は郷原の元同僚だった。

琴葉は著者への支払いを最優先で実行し、架空会社への振込を止める。郷原が赤い帳簿を奪おうとしたが、編集者たちが机の周りに立った。

「本を作る人間は数字が分からないと思ったか?」

琴葉は元帳の余白へ、不正送金の取消番号を書き込んだ。

午後十時。前の人生では看板作家から契約解除メールが届いた時刻。

受信箱が更新される。

件名は同じ作家名だった。琴葉の指が一瞬震える。

だが本文は一行目から違った。

『印税の着金を確認しました。次作の原稿、予定どおりお送りします』

その直後、編集部の大型プリンターが動き出す。出てきたのは契約解除書ではなく、新作の第一章だった。

郷原が座り込む横で、琴葉は赤い帳簿を開いたまま言った。

「今月の数字は、今月のうちに合わせます」

ページをめくる音が、会社の続きを告げていた。