返品理由は不要
宅配便の箱から、黒い革のバッグが出てきた。
金具には保護シールが付き、底には母の選ぶ店のロゴが刻まれている。値札を見て、遥香は息を止めた。来週から働く小さな出版社の月給、その半分近い額だった。
箱の内側にカードがある。
〈転職祝い。ちゃんとした鞄を持てば、ちゃんとした会社へ行きたくなります。今の内定は断りなさい〉
母には、入社日だけ伝えた。会社名を検索し、社員数と資本金を調べ、昨夜から十七件のメッセージを送ってきた。
〈将来性がない〉
〈福利厚生は確認した?〉
〈お母さんが紹介した会社なら安心〉
遥香はバッグを膝に載せた。革はなめらかで、確かに上等だった。大学の入学式にも、最初の就職面接にも、母が選んだ鞄を持った。写真の中の遥香は、いつも両手で持ち手を握っている。
スマートフォンが鳴った。
『届いた?』
「届いた」
『素敵でしょう。来週、それで紹介先の面接へ行きなさい』
「面接には行かない」
『まだ断ってないの? 今度の会社は校正でしょう。地味だし、お給料も――』
「入社するよ」
『そんな小さなところ、親戚に言えないわ』
「言わなくていい」
『あなたの経歴に傷がつくのよ』
遥香は箱に入っていた返品票を広げた。理由の欄には、〈サイズ違い〉〈イメージ違い〉〈不良品〉〈その他〉が並んでいる。
「バッグ、返すね」
『どうして。高かったのよ』
「だから」
『親の気持ちを値段で返すの?』
「値段を付けたのはお母さんだよ。これを持ったら、言うことを聞く代金になる」
電話の向こうで、母が何か言いかけた。遥香は先に続ける。
「仕事の話はもう相談しない。報告もしばらくしない」
『失敗して泣きついても知らないから』
「泣きつかない。失敗したら、自分で次を探す」
通話を切り、返品理由の〈その他〉に丸を付けた。説明欄へペン先を置く。
〈不要〉
二文字だけ書いた。バッグが悪いわけではない。母の気持ちが偽物とも言い切れない。ただ、必要ではなかった。
遥香は保護シールに触れず、バッグを薄紙で包み直した。箱のふたを閉じ、返品伝票を貼る。
翌朝、集荷の人へ箱を渡したあと、押し入れから古い布のトートバッグを出した。前の会社を辞める日に、同僚たちからもらったものだ。角は擦れ、持ち手には少し毛玉がある。
出版社へ持っていくゲラを入れると、重みで形が崩れた。
遥香は鏡の前で持ち直さなかった。ちゃんとして見えることより、自分が選んだ荷物を運べることのほうが、今は必要だった。