透明な大根
庄司玲那は、夜勤の休憩室でインシデント報告書を開いた。
午前三時。患者に渡す薬の量を取り違えかけた。投与前の確認で先輩が気づき、患者への影響はなかった。
「未遂なら書かなくても」と言う人はいない。規則では報告が必要だ。分かっている。それでも玲那は、原因欄へ一文字も打てずにいた。
来月、希望していた救急病棟への異動面談がある。報告書を出せば、注意力のない看護師だと判断されるかもしれない。出さなければ、誰にも知られずに済む。
取り違えた薬の名前と量は、見なくても言えるほど頭に残っている。患者が眠る病室の前を通るたび、起きなかった結果だけに救われている自分が、さらに小さくなった。
先輩は交代で休憩に入る前、大根の澄ましスープを一杯だけ置いていった。「食べてからでいい」と言ったきり、責めなかった。
器を持つと熱が掌へ伝わった。薄く煮た大根は、歯を入れると抵抗なく切れた。
玲那は一切れずつ食べながら、入力欄を見る。
最後に残った大根だけ、ほかより厚かった。中心がわずかに固い。完璧に透き通ったように見えても、同じ火の通り方ではない。
玲那はその一切れをスプーンへ載せたまま、報告書を書き始めた。
忙しかったから、とは書かなかった。薬棚の配置が似ていたこと。確認を声に出さず、頭の中だけで済ませたこと。先輩の確認がなければ投与していたこと。自分に不利な順で、事実を並べた。
送信前に、また手が止まる。
スプーンの上の大根は冷め、白さを増していた。残しても、なかったことにはならない。
玲那は報告書を送信した。
受付完了の表示を見てから、最後の一切れを食べる。冷めた大根はさっきより固く、何度か噛まなければならなかった。
先輩が戻ると、玲那は空の器を差し出した。報告書の番号も見せる。
先輩は「よかった」とも「大丈夫」とも言わず、器を受け取った。そして薬棚の配置変更を申請する画面を開いた。
玲那の名前が記録に残る。その記録は、失敗しかけた一人を裁くためだけではなく、次の誰かが同じ量を取り違えないために使われる。
透明な一切れまで食べたあと、玲那は初めて、自分の過ちを隠さないことと、自分の将来を諦めることは同じではないと思えた。