遺留分は零円
薄井暁帆は、父・知廉の介護のため九年間実家へ通った。兄の達海は「長男はいざという時のためにいる」と言ったが、その「いざ」は一度も来なかった。救急搬送の夜も、退院後の排泄介助も、暁帆一人だった。
知廉が亡くれると、公正証書遺言が開かれた。
自宅と預金は暁帆へ。達海には遺贈しない。
達海は笑った。
「遺言があっても遺留分は取れる。家を売って四分の一を現金で払え」
すぐに高級車を予約し、親戚へ「最低でも三千万円入る」と吹聴した。暁帆には二週間以内の支払いを求め、応じなければ家へ仮差押えをすると通知する。
弁護士事務所で、達海は腕を組んだ。
「介護したから独占なんて許されない。法律は平等だろ」
知廉の税理士が、生前贈与一覧を投影した。
達海は八年前に住宅購入資金二千五百万円、六年前に事業資金三千万円、三年前に子どもの留学費一千万円を受け取っている。すべて贈与契約書と振込記録があり、知廉は相続時に考慮するよう付記していた。
さらに、達海が預かった父のキャッシュカードから、介護費名目で引き出した一千二百万円のうち、実際に使われたのは百八十万円だけだった。残額は達海の証券口座へ入り、暗号資産へ替えられている。
達海は椅子を蹴った。
「親にもらった金まで数えるのか!」
「遺留分を計算するために、法律どおり数えています」
税理士が基礎財産へ贈与分を加え、達海がすでに受けた利益と返還すべき出金を差し引いた。弁護士は何度も検算し、最後の欄へ数字を入れる。
達海の遺留分侵害額、〇円。
それどころか、父の口座から流した一千二十万円について、遺産への返還義務が残る。暁帆の介護立替金は別に債務として認められ、遺産から先に精算される。
達海は声を落とした。
「妹なんだから、返還請求はしないよな」
暁帆は、兄が送ってきた仮差押え予告を机の中央へ置いた。
「兄さんが法律で平等にしようと言ったんでしょう」
弁護士は達海の高級車販売店へ送る債権保全通知に押印した。
「ご請求の遺留分は零円です。代わりに、こちらから一千二十万円をご請求します」