避難対象外

犬伏丈流は毎朝、父・肇馬へ貸出身体で新聞を届ける。本体は工場事故で寝たきりだが、今の身体なら階段も上れる。父は毎回「その顔には慣れん」と言いながら、コーヒーを二杯淹れた。

沿岸警報が鳴った朝も、丈流は父の部屋にいた。

巨大津波まで二十二分。屋上の避難艇へ向かうと、入口の読取機が二人を走査した。

《犬伏肇馬:避難者一名》

《貸出身体R-909:携行資産一件》

災害時、避難席は本体を持つ生身の人間へ割り当てる。貸出身体は会社所有の物品として、人員に数えない。それが一つの規則だった。

「中に意識がいる」

丈流は利用者証を見せた。

《意識利用者の本体所在地:内陸保管施設》

《生命は安全圏にあります》

「俺はここで死ぬんだぞ」

《貸出身体の損失は保険で補償されます》

艇の残席は一つだった。

父は乗ろうとしない。

「お前を置いていけるか」

「俺の本体は内陸だ。戻されるだけだ」

丈流は嘘をついた。災害による通信遮断中は、貸出身体から本体へ意識を返せない。身体が水没すれば、接続中の意識も損傷する。

父は彼の顔を見た。

「その身体、嘘つくと右の眉が上がるんだな」

警報が残り十五分を告げる。

避難係が父の腕を取る。丈流も艇へ足を入れると、床が赤く光った。

《資産の無断積載》

「料金を払う」

《貨物室は満載です》

救命艇の貨物室には、レンタル会社の予備身体が十体固定されていた。未使用の新品。保険価値が高いため、優先搬送対象だった。

「一体降ろせばいいだろ」

《契約資産の保護義務があります》

父が急に丈流を突き飛ばした。

丈流は艇の外へ倒れる。父は一人で席へ押し込まれた。

扉が閉まる。

ガラス越しに、父が拳を叩く。

丈流は笑って右眉を下げようとした。

「戻れるから!」

声は届かない。

艇が上昇する。貨物窓には、新品の身体が整然と並んでいる。父はその隣で小さくなる。

津波が町へ入った。

丈流の端末に会社から通知が届く。

《身体損失時の自己負担額:六百万円》

《安全な場所へ移動してください》

彼は屋上の縁に立ち、父の艇が山側へ飛ぶのを見届けた。

水が足元まで来た瞬間、通信が完全に切れた。

内陸の本体は安全だった。

ただし、戻るための意識は海の中で途切れた。