釣具店の奥の丸椅子
久地浦尚人は、釣りをしないのに川沿いの釣具店へ通っている。
父に連れられて子どもの頃は釣ったが、大人になってから竿を出したことはない。
店の奥にある丸椅子と、店主が淹れる薄い珈琲が好きだった。
「今日は何を買う?」
店主は毎回訊く。
「何も」
「うちは休憩所じゃない」
そう言いながら、珈琲を出す。
尚人はときどき釣り糸や小さな浮きを買い、家の机へ並べた。使わない道具は、入場料のようなものだった。
店へ来る客は、魚の話しかしない。
水温、餌、昨日の釣果。
尚人の仕事や家族や将来を訊かない。訊かれても「今日は釣らないの?」くらいだった。
「今日は見に来ただけ」
答えると、皆それ以上気にしない。
ある日、丸椅子がなくなっていた。
店主が奥の棚を増やし、場所が狭くなったらしい。
「座れない」
「買い物は立ってするもの」
「珈琲は?」
「外の堤防で」
尚人は紙カップを持ち、店の前の堤防へ座った。
川は春の雨で少し濁り、釣り人が二人、黙って浮きを見ている。
店内より風が強く、珈琲はすぐ冷めた。
隣の釣り人が、小さな魚を一匹釣り上げた。
「何ですか」
尚人が訊く。
「オイカワ。食べるほどじゃない」
魚はすぐ川へ戻された。
銀色が一度光り、水の中へ消える。
釣らなくても、その瞬間を一緒に見られた。
翌週、店へ行くと丸椅子が戻っていた。
棚の一番下を少し詰め、隙間へ置かれている。
「休憩所では?」
「長年置くと、店の設備になる」
店主は薄い珈琲を淹れた。
尚人は新しい浮きを一つ買った。
「使う?」
「机に飾る」
「魚より暇そうだな」
二人で笑った。
釣具店は、何かを釣り上げるためだけの場所ではない。
魚の話を聞き、川の匂いを嗅ぎ、自分のことを説明せず丸椅子へ座る場所だった。
紙袋の中で浮きが軽く鳴り、上着には珈琲と水草の匂いが残る。
帰宅して机へ置くと、小さな赤い浮きは、川へ行かない日にも店の奥の静けさを思い出させた。
店先の風鈴が川風で一度鳴り、浮きの赤と同じ小さな余韻を、夕方の水面へ落とした。