鋼鏡の息
ミハル・ヴォルクの鋼鏡には、息をかけた時だけ文字が出た。
磨いた面へ獣脂で細い字を書き、その上から灰で曇らせる。布で拭けば灰も脂も見えなくなる。だが冷えた鏡へ温かい息を吹けば、脂のない所にだけ水滴がつき、文字が浮く。
密書は〈北塔の赤灯、三度目で門を開け〉。
ミハルは敵将付きの髭剃りとして、雪城の本営へ入った。明朝の総攻めを前に、将は勝利の肖像を描かせるため、顎を整えたがっていた。
検問のドラグ・セレンが鏡を受け取り、灰布で強く磨いた。
「鏡へ字を書く間者がいる」
「字が読める髭剃りなら、もっとましな仕事をします」
ドラグは鏡を火へかざした。熱すれば脂が溶け、字は完全に消える。ミハルは止めなかった。鏡の縁だけを火へ近づけ、中央は冷えたままなのを見ていた。
検問官は自分の顔を映し、鼻で笑った。
「醜い物しか入っていない」
「それは鏡の罪ではありません」
平手が飛んだが、通された。
将軍幕で、ミハルは敵将の喉へ剃刀を当てた。刃を引けば戦は一人ぶん終わる。だが密書は届かない。将を殺しても軍は止まらず、北塔の味方だけが死ぬ。
「手が震えているぞ」
「寒さです」
「殺したいのではないか」
「髭剃りは毎日、そう思われます」
将は笑い、顎を上げた。
剃り終えると、副官オレク・ザフが鏡を受け取った。彼が城内の間者だった。鏡は火のそばで温まり、まだ字が出ない。
オレクはわざと床へ落とし、窓際の雪へ滑らせた。
「拾え」
ミハルが拾い、袖で拭く。鋼が再び冷える。
オレクは検分するふりで鏡へ息を吹いた。水滴の中に一行が現れ、すぐ消えた。
鏡の字を読んだオレクの瞳は一度も動かなかった。動けば将の喉より先に、二人の首が落ちる。ミハルは道具箱へ剃刀を戻し、刃に残った泡を拭いた。敵を殺せる距離から生かして帰る。それも、間者にしかできない種類の殺しだった。
敵将は肖像師へ向き直っていた。
「髭剃りを下げろ」
ミハルは幕外へ出た。ドラグが待っていた。
「鏡をもう一度見せろ」
その時、北塔の窓に赤い灯が一つ上がった。消え、二度目が上がる。
ドラグが振り返る。
三度目の赤灯が、吹雪の中へ掲げられた。