門を出た深淵
黒砦が降伏したとき、勝者へ渡された鍵は二つあった。
一つは城門の鍵。もう一つは、門そのものに縛られた深淵魔族クロスの所有鍵だ。
彼は黒い鎖で門柱へ縫い留められ、命令されれば谷を霧で閉ざす。鎖の輪には百年前からの城主名が重ねて刻まれ、主が替わるたび一つずつ彼の骨へ沈んでいた。砦の兵は門を守る守護神と呼んだが、彼が門の外を見たことは一度もない。敗軍の将ダルニスは講和使節アイラへ銀鍵を差し出した。
「あなたの国の印へ替えれば、砦は永久に落ちません」
「替えなければ?」
「今夜、敗者である私の最後の命令に従い、砦と自分を爆破します」
アイラは城門の鍵だけを受け取った。銀鍵を拒めば砦を失うと部下は囁いたが、彼女はクロスへ直接問いかける。
「爆発を止める代わりに、私の印を受けたい?」
「死ぬよりはましだ。だが、それを望みと呼ぶな」銀鍵は石台へ置き、短剣を差し込む。
「所有者を空白にすれば爆発するぞ」とダルニスが笑う。
彼女が狙ったのは名を刻む面ではない。銀鍵の根元にある、小さな返しだった。返しが黒鎖へ命令を送っている。
短剣を捻ると返しが折れた。
谷を揺らす音とともに、門柱から鎖が抜け落ちる。爆発は起きない。所有者が空白になったのではなく、所有という仕組みが鍵ごと届かなくなったのだ。
クロスは立ち上がった。骨へ沈んでいた歴代城主の名が、黒い欠片となって足元へこぼれる。彼は閉じた門を振り返らず、初めて谷の外へ続く闇の霧へ溶けた。
アイラは砦の扉を開け、敵味方の負傷兵を外へ出す。ダルニスは隠していた部隊へ合図し、講和を破って突撃させた。
勝者側の兵は城外。アイラひとりでは門を守れない。
谷底から黒い霧が戻り、突撃隊の足元だけを深い夜で覆った。兵たちは方向を失い、互いの盾へぶつかって倒れる。誰ひとり命を奪われなかった。
クロスが門前へ姿を現す。
「最後の命令が残っていたのか」
「ない」
「では、なぜ砦を守る」
「砦ではない。開いた門から出ていく者を守った」
彼は自分を縛っていた鎖を丸め、アイラの足元へ置いた。その上に深淵の大鎌を横たえ、柄を彼女へ向ける。
「この門の主にはならないか」
「主はいらない。番人なら二人必要だ」
アイラが城門の鍵を半分に割って一片を渡すと、クロスは初めて門柱ではなく、彼女の隣に立った。