雨の日の内線

雨宮睦月が外資系企業の内定を受けた翌朝、今の会社の内線が鳴った。

「部長室へ来て」

窓の外は強い雨だった。睦月は濡れた折り畳み傘を自席の下へ置き、内定通知をスマートフォンの中に隠した。

部長室では、来月からの昇進と在宅勤務の拡大を提示された。どちらも、睦月が二年前から希望していた条件だった。

「会社としても手放したくない」

その言葉を聞きたかったはずなのに、遅れて届いた評価は、雨で滲んだインクのように輪郭がぼやけた。

机へ戻ると、傘が二本あった。自分の紺色の折り畳み傘と、昨日、内定先の受付で借りた透明な傘。返却は入社手続きの日でよいと言われている。

紺色の傘は骨が一本曲がっているが、どこを押せば開くか知っている。透明な傘は大きく、まだ手に馴染まない。どちらを使っても雨は止まない。

現在の会社に残れば、条件は良くなる。転職先は試用期間があり、英語の会議も多い。昇進を断って失敗したら、自分から評価を捨てたことになる。

昇進通知の案には、決裁待ちの赤い印があった。外資の内定通知には、試用期間中の解雇条件まで細かく書かれている。安心だけなら前者、明確さだけなら後者だった。睦月は、どちらの紙も自分を守り切れないことを確認してから受話器を取った。

睦月は部長へ、一回だけ電話した。

「提示はありがたいです。でも退職します」

理由を問われ、睦月は「評価が遅かったから」とは言わなかった。遅さだけが理由なら、今からでも埋め合わせられる。そうではなく、外へ出る準備をした自分を、条件が整った瞬間だけ元の場所へ戻したくなかった。

通話後、内定承諾書を送信した。怖さは雨音に紛れず、はっきり残った。

帰りに、睦月は曲がった紺色の傘を修理店へ預けた。捨てる必要はない。今の会社で過ごした時間まで否定すれば、選択がきれいになりすぎる。

透明な傘を開き、睦月は駅へ歩いた。借り物の傘を返す日までに、新しい仕事を好きになれる保証はない。それでも濡れるたび、自分でこちらを開いたことだけは忘れないと思った。