電波の届く土曜日
「この局の電波は、県境を越えると弱くなります」
地方ラジオ局の技術担当、岡田隼人は、新人時代の鹿島雛乃へそう教えた。
雛乃は夕方番組のパーソナリティーになり、隼人は調整室から彼女の声を支えた。放送中に言葉が詰まると、ガラス越しに指で秒数を示す。雛乃が笑えば、隼人もマイクに入らない場所で笑った。
停電で送信機が止まった夜、二人は非常灯の下で復旧を待った。電波が戻るまで、雛乃は誰にも届かない声で近況を話し、隼人だけが聞いた。あの夜から、彼に届けば十分だと思う瞬間が増えた。それでも番組が毎日続くかぎり、特別な呼び名は必要なかった。
東京本社への転勤が決まった雛乃は、最後の放送で明るく別れを告げた。調整室の隼人だけは、最後まで笑わなかった。指先だけが、卓上で落ち着かなく動いていた。
「遠くへ行っても、配信で聴いてくださいね」
曲が流れ、赤いランプが消える。スタッフから拍手を受けたあと、雛乃は調整室へ向かった。隼人の席には、小さな携帯ラジオと一枚の時刻表が置かれている。
ラジオの選局ボタンには、今の局と東京の新しい局、二つの周波数が登録されていた。時刻表には毎月第一土曜、東京行きと帰りの列車へ印がある。
「仕事熱心ですね」
「雛乃の番組を聴くだけなら、配信で足ります」
隼人は最初の列車を予約した画面を見せる。到着後の予定は、雛乃が話していた喫茶店と小さな劇場。仕事の取材先ではない。
雛乃は携帯ラジオを彼の胸ポケットへ戻し、自分のスマホへ翌月の帰省予定を入れた。件名は《隼人と会う土曜日》。彼のカレンダーにも共有する。
「東京では、私の声しか届きませんよ」
「それでいいです」
「会っているときは?」
雛乃は調整卓越しではなく、隼人の隣へ回る。彼の手を取り、放送中より低い声で名前を呼んだ。
「隼人」
返事の代わりに、指が強く絡んだ。
この局の電波は県境を越えると弱くなる。
それでも二人が決めた土曜日には、声ではなく互いの手が、同じ場所まで届くことになった。