青い絵の具
私は、亡くなった画家の最後の絵を救いに来た。
作品は警察署の保管室に立てかけられていた。縦二メートル、横三メートル。夜の港を描いた大作で、群青の海に一本だけ白い航路が伸びている。近づくと、波の一枚一枚に細かな銀粉が混じり、見る角度で海面が動いた。画家は完成の翌朝、アトリエで死んでいるのを発見された。
死因は後頭部の打撲。絵の前に倒れ、右手には青い絵の具がついていた。
「表面が剥がれ始めています」
私は担当者に説明した。乾燥が不十分なまま急に温度が変わったせいだ。今処置しなければ、最後の作品は数年でひび割れる。
作業中は監視カメラを切ってもらった。紫外線を含む補助灯が顔料に悪い、と言うと、担当者は疑わず電源を落とした。扉の外には警官が立つ。私は一人で白衣を着て、道具を並べた。
まず埃を払い、表面を柔らかい刷毛でなぞる。額縁の角を布で包み、剥離した箇所へ薄い紙を当てる。海の部分だけ、絵の具が異様に厚い。青の下から、別の線が盛り上がっている。
画家は死の直前まで描いていた。筆を持てなくなってから、指で何かをなぞったらしい。
私は溶剤を綿棒につけ、右下の群青を少しずつ薄くした。黒い線が現れる。一本、二本、斜めの払い。絵の題名でも署名でもない。文字だ。
扉の外から担当者が尋ねる。
「順調ですか」
「ええ。傷んだ部分を補っています」
私は答え、もっと小さな筆を取った。
港の灯を一つ描き足す。白い波を重ねる。文字の輪郭は、青の下へ再び沈んでいく。色を合わせるのは難しくなかった。私はかつて彼の助手で、何年も同じ顔料を練っていたからだ。
最後に保護剤を塗る。表面は均一な艶を取り戻し、誰が見ても修復前より美しくなった。
カメラの電源が戻る直前、私は筆を置いた。
救ったのは絵ではない。海の下に浮かんだ文字は、画家が血と絵の具で残した私の姓だった。
彼を殴った夜と同じ青を重ね、私は最後の証言だけを、完成された夜の港へ塗りつぶした。