青い綿棒

 平瀬野芽衣の綿棒だけ、青く染まらなかった。

 江戸期の屏風を修復するため、彼女は顔料が溶けない洗浄液を一滴ずつ試していた。主任学芸員の木場島省吾は、作業の遅さに舌打ちした。

「展覧会まで時間がない。強い溶剤で一気に落とせ」

「群青が動きます」

「学芸員の指示に従えない保存修復士は、地下で箱でも拭いていろ」

 芽衣は目立たない端で、一センチ四方ずつ試験を続けた。綿棒がわずかでも青くなれば止め、湿度と秒数を書いた。見学者には見えない作業だったが、屏風の空だけは少しずつ元の明るさへ戻った。

 芽衣が拒むと、翌日から展示会議を外された。作業台には別の担当名が貼られ、芽衣の白衣は地下の収蔵庫へ移された。地下は冷えていた。

 木場島は芽衣の試験結果を記者へ見せ、洗浄法を自分が開発したと語った。芽衣は地下の収蔵庫へ回されても、温湿度の記録を止めなかった。鉛筆で一行ずつ。作品に誰の名が付くかより、次に触る人が同じ失敗をしないことのほうが大切だった。

 その週末、屏風の雲の一部が白く抜けた。木場島は職員を集め、青い綿棒を机へ置いた。

「平瀬野が顔料を落とした。慎重なふりをして、この結果だ」

 芽衣の記録では、その場所に触れていない。彼女は使用済み綿棒を色別に封じ、番号を振っていた。

 展覧会の保険査定のため、外部保存委員が来館した。事故箇所を確認し、作業室の赤外線記録を求める。高額作品の前では、照明を消していても手元が自動撮影される。

 映像には土曜の深夜、木場島が一人で強い溶剤を塗る姿が残っていた。入室証も彼のもの。机に置かれた青い綿棒の番号は、芽衣の台帳にはなく、その夜に木場島が追加した記録だった。

「展覧会を守るための判断です」

 保存委員は、芽衣が作った試験片をライトへかざした。汚れだけが薄くなり、群青は残っている。

 館長は屏風の取扱者一覧を開き、木場島の認証を削除した。

「本日から保存修復責任者は、平瀬野芽衣さんです」