青黴の樽栓
霧の町デルフハーヴェンで、樽職人ヨリス・ヴァーンは青黴の栓を抜いた。
中は空だった。樽板には麦の匂いだけが染み、ヨリスは指で内側を撫でて、その匂いまで掻き取ろうとした。
市壁の地下には麦樽が二十四あるはずだったが、二十三が空。町では昨日、製本屋の糊を湯に溶かして子供へ飲ませた。最後の一樽も底に鼠糞が残るだけだった。
包囲軍は水門を閉じ、町が腹から降るのを待っている。
市参事の三人は、互いを盗人と呼んだ。誰かが敵へ備蓄量を伝えている。
ヨリスは空樽の栓へ、醸造所ごとに違う黴を塗った。色は違っても匂いは同じで、手へ触れれば半日は落ちない。青、白、黒。三人へ別々の地下庫を案内し、「ここだけは麦が残る」と嘘を教えた。
翌朝、敵の投石機が青黴の樽庫だけを狙った。
「青を見せたのは」
守備隊長アンネケが訊いた。
「造船組合長です」
「捕らえるか」
「まだです」
組合長は敵へ、麦の所在ではなく、町の絶望を売っている。今夜、青い灯を水門へ掲げれば降伏すると約したはずだ。
ヨリスは組合長を尾行した。男は造船所の床板を外し、そこから小舟へ降りた。
小舟には麦袋が積まれていた。
盗んだ二十三樽分を、水上倉庫へ移していたのだ。町を飢えさせ、降伏後に敵へ高値で売るために。
「職人風情が」
見つかった組合長が短銃を抜いた。
ヨリスは青黴の栓を投げた。男が反射的に避けた瞬間、アンネケの槍が胸を貫いた。
水上倉庫には麦が十六樽分残っていた。袋の口には組合長の私印があり、盗みが一夜の出来心でないことを示していた。七樽分はすでに敵陣へ流れている。
「何日持つ」
「町民も食えば三日。兵だけなら七日」
「町民を切れば勝てるか」
「町民を切った町を、勝ったとは呼びません」
アンネケは黙った。
ヨリスは樽を開け、広場へ運ばせた。配給の鐘が一度だけ鳴る。
城外では、約束の青い灯を待つ敵兵が水門前へ寄っていた。組合長の裏切りが生きているうちに、使うしかない。
ヨリスは青黴の栓を水へ捨てた。
アンネケが兜を被る。
水門の上へ、青い出撃旗が上がった。