非常口の合言葉
冬佳さんと灯里さんが保護施設へ来たのは、雨の深夜だった。
母親から逃げる途中だという。姉の冬佳さんが事情を説明し、妹の灯里さんは濡れた鞄を抱いたまま黙っていた。母は警察にも知人がいる、住所が漏れれば必ず連れ戻される、と姉は強調した。逃げるたびに先回りされたというのに、冬佳さんは「母は勘が鋭い」としか説明しなかった。
「二人を同じ部屋にしてください」
冬佳さんは何度も頼んだ。個別面談にも付き添おうとし、施設の非常口がどこへ通じるか、夜間の職員は何人かまで尋ねた。
私は、妹を守るため神経質になっているのだと思った。灯里さんが何か言おうとすると、姉は「白い鳥は?」と問いかけた。妹は反射的に「籠に戻る」と答え、そのあと必ず黙った。幼いころ母に教え込まれた合言葉だという。
規則で携帯電話を一時預かると告げると、冬佳さんは自分の端末だけ「電池が切れている」と渡さなかった。灯里さんの端末はすぐ差し出し、暗証番号まで代わりに答えた。
翌朝、姉妹を別々に面談した。灯里さんは初めて声を出した。
「お姉ちゃん、ずっとお母さんと連絡しています」
逃走経路も、泊まったホテルも、そのたび母に伝えていたという。母が現れると冬佳さんは灯里さんをかばい、さらに遠くへ逃げる。その繰り返しで、妹は姉以外の連絡先をすべて失った。冬佳さんは「母を安心させないと追跡が激しくなる」と説明し、妹には黙るよう命じた。
私は姉の端末を確認させてほしいと頼んだ。職員が灯里さんを別室へ連れていこうとすると、冬佳さんは非常口の前へ立った。冬佳さんは泣き、ここも家族を引き裂くのかと叫んだ。その騒ぎの間に、灯里さんを別の施設へ移す手配をした。妹は移動先を姉に知らせないでほしいと、合言葉を使わずに頼んだ。
午後、正面道路に同じ車が三度現れた。警察へ連絡し、冬佳さんにも移動を求めた。彼女は急におとなしくなり、端末を机へ置いた。
送信画面には施設名こそなかった。ただ、姉妹が幼いころから使っていたという合言葉と、非常口の写真が残っていた。
〈白い鳥は三階から飛ぶ〉
宛先の登録名は〈ママ〉。
文末には、灯里さんへ見せたことのない赤いハートが三つ並んでいた。