靴箱までの遠回り

文化祭後の教室から靴箱までは、階段を一つ下りるだけだった。それなのに奏恵と蒼士は、遠い廊下を選んだ。

机を元へ戻し、黒板の飾りを外し、最後のごみ袋も出した。もう残っている仕事はない。蒼士は翌週、祖母の住む町へ引っ越す。卒業まであと半年だったが、戻る予定は決まっていなかった。

奏恵の制服のポケットには、便箋が一枚入っている。準備期間中に書いた告白だった。文化祭が終わったら渡す、と決めていた。

二人は三階の渡り廊下を歩いた。窓の外で模擬店のテントが畳まれ、校庭の白線が夕暮れに薄くなっている。話したのは、焼きそばが余ったことや、隣のクラスの劇が長すぎたことばかりだった。教室からは打ち上げへ向かう笑い声が追いかけてきたが、二人とも戻らなかった。ゆっくり歩けば別れを延ばせる一方で、遅くなれば奏恵の予備校の最終授業に間に合わない。腕時計の針が、その両方を同じ速さで進めていた。奏恵は、好きな人との最後かもしれない時間にも、別の未来の締切があることを、残酷ではなく救いだと思った。

階段の前で、蒼士が足を止めた。

「待っててって、言わないから」

奏恵は胸の中を見透かされた気がした。

「言われても、待たないよ」

強がりではなかった。進学したい学校も、住みたい街もある。蒼士を好きなことと、自分の時間を止めないことは、両立していいはずだった。

奏恵はポケットから便箋を出した。渡さずに捨てることも考えたが、それでは、好きだった自分まで隠すことになる。

「返事は今じゃなくていい。戻る約束もしなくていい」

蒼士は便箋を受け取り、折り目に親指を置いた。

靴箱で、二人は別々の靴へ履き替えた。蒼士は家族の車が待つ正門へ、奏恵は予備校のある駅へ向かう。

予備校へ行けば、今日の余韻を語る友達はいない。けれど、その孤独も自分で選んだ先へ続いている。校門の前で振り返ると、蒼士も振り返っていた。手は振らなかった。約束をつくらないためではなく、相手が歩き出す瞬間を邪魔しないために。

奏恵は前を向き、発車時刻の迫る電車へ走った。便箋を渡した手は空いていて、そのぶん新しい鞄の持ち手を強く握れた。