頂上を見なかった日

安西未散は、登山口のベンチで青いカラビナを握った。今日は大学時代の友人三人を案内する約束で、全員が休みを合わせ、頂上で食べる菓子まで用意している。雲が稜線を隠し、スマートフォンには雷注意報が出ている。今日の仲間は、あと二時間で頂上へ着けると言った。

同じ山で、高校山岳部の最後の活動をした日も、空は白かった。

卒業前の記念登山。頂上まで標高差は残り二百メートルだった。未散は先頭を歩き、頂上標識の前で撮る写真ばかり考えていた。

遠くで雷が鳴った。

部長は地図を畳み、「戻る」と言った。雨はまだ一滴も落ちていない。未散は納得できず、ザックの肩紐をつかんだ。

「あと少しです」

「あと少しだから、今戻る」

部長はザックから荷物用の青いカラビナを外し、未散へ渡した。そこには、標高を刻んだ細い傷がついていた。

「下りの先頭、頼む」

頂上へ行けないうえ、帰る道を任される。罰のように思えた。未散は唇を噛み、来た道へ向き直った。

下山を始めて二十分後、雨が横から打ちつけた。岩は黒く濡れ、登りでは気づかなかった段差が深く見えた。後ろの足音を数えながら、未散は一歩ずつ下った。濡れた笹が脛を打ち、靴底の泥が重くなる。先頭にいると、頂上を見失うより、後ろの声が途切れる方が怖いのだとわかった。誰かが遅れれば止まり、全員の顔が見える場所まで戻る。

樹林帯へ入った瞬間、稜線の方で空が裂けた。光と音がほぼ同時だった。

登山口へ着いたとき、写真は一枚も撮らなかった。部長は未散の掌からカラビナを取り、また返した。

「今日の一番高い場所、そこに傷を足しておけ」

頂上ではない標高を刻むのが悔しかった。それでも未散はナイフで小さな線を引いた。

現在、彼女は友人たちの先頭にいる。昔なら、諦めたと思われるのが怖くて進んだだろう。けれどカラビナの傷は、届かなかった高さではなく、全員で帰り始めた場所を示している。

未散は立ち上がった。

「今日は下りよう」

残念そうな息が聞こえた。それでも彼女は地図を開き、登山口へ向く。

頂上を見なかった日から、帰る道も前へ進む道になった。