顔を忘れる懐中時計
午後四時三十一分、沢潟澄人は懐中時計の蓋を開いた。針を戻せるのは、あと一度。
交差点の向こうで妹の紗由が、黄色い紙袋を振る。
「兄ちゃん、信号変わるよ」
一分後、暴走トラックが紗由をはねる。澄人は十六回、一分間をやり直した。代償は一回につき、妹の顔の記憶が一つ消えることだった。
手を引けば靴が脱げ、紗由は拾いに戻った。信号機を壊すと、警察官に止められた隙に渡った。運転手へ電話しても、着信音に驚いてハンドルを切った。最後から二回目、澄人は紗由を歩道へ突き飛ばすことに成功した。
だがトラックはその先のスクールバスへ突っ込んだ。十八人の子どもが死んだ瞬間、時計は再び四時三十一分へ戻った。
成功条件は紗由が四時三十二分に生きていること。時計は他の死者を数えない。次の一回なら、妹だけは確実に助けられる。
「兄ちゃん、信号変わるよ」
紗由の声は分かる。だが澄人の記憶の中で、目の形も笑い方もすでに曖昧だった。最後に針を戻せば、名前まで消える。
澄人は走らなかった。代わりに懐中時計を路面へ置き、靴の踵で踏み砕いた。
四時三十二分。トラックは最初の軌道を進み、紗由を奪った。スクールバスは交差点を抜けた。時間は戻らない。
葬儀で、澄人は遺影を見ても誰の顔か分からなかった。胸が痛む理由だけが残っている。
スクールバスの子どもたちは事故を知らず、翌日も同じ道を通った。澄人は遠くからその列を見て、選択が正しかったと思おうとした。だが遺影の前では、正しさは何の慰めにもならない。母に「紗由の好きだった色は」と聞かれ、答えられなかった。黄色い紙袋を見ても、それが手掛かりだとしか分からない。忘却は痛みを消さず、痛みの持ち主だけを奪っていた。
事故現場の花束には、紗由の友人が書いた名前があった。澄人はその文字を手帳へ写した。記憶ではなく記録として、妹を一から覚え直すためだった。
黄色い紙袋の中には、彼への誕生日プレゼントだった新しい時計が入っていた。澄人は針を合わせず、割れた懐中時計と並べて引き出しへしまった。二つの時計は、別々の四時三十二分で止まっていた。