風の強い搭乗橋
搭乗口が閉まるまで十分。倉田正宗は、窓の外で揺れる搭乗橋を見ていた。ジャカルタ支社への転勤は二年。宮下怜奈は見送りに来ないと言った。正宗が初めて海外出張へ出た朝には、始発で空港まで来て、保安検査場の外でマフラーを巻き直してくれた。今日はその場所に、知らない家族が立っている。
〈遠距離はできない〉
昨夜届いた一文に、正宗は〈分かった。鍵は郵送して〉と返した。既読はつかなかった。
搭乗開始の列が動き出したとき、係員が彼の名を呼んだ。
「こちらを預かっています」
紙袋には、怜奈が借りていた紺色のマフラーと、彼の部屋の合鍵が入っている。マフラーは初めての出張で貸し、帰国するたび彼女が「次も使うから」と返さなかったものだ。端には怜奈が縫った白い糸が一本だけ走り、ほどけた場所を示している。
封筒も一通あった。中身は手紙ではなく、在留資格の相談票と、不受理の通知だった。申請者は宮下怜奈。渡航目的は〈同居予定者への帯同〉。婚姻関係を証明できず、就労先も未定のため認められない、とある。
昨夜の〈遠距離はできない〉は、別れたいという意味ではなかった。遠距離にしない方法がなくなった、という報告だった。
正宗は電話をかけた。呼び出し音は一度で留守番電話へ変わる。
「どうして先に言わなかった。俺は――」
最終搭乗の案内が重なった。係員が扉の前で待つ。
紙袋の底に、もう一枚、小さなメモがあった。
〈結婚してと言えば、転勤を断ると思った。あなたの仕事を奪ってまで一緒にいたいとは言えなかった〉
時刻は、出発六分前。正宗が会社へ転勤辞退を連絡しても、代わりの人員はもう現地へ向かっている。怜奈の自宅へ戻っても、彼女は今朝、実家へ荷物を送ったと共通の友人から聞いていた。
携帯に遅れて既読がついた。続いて怜奈から、〈行ってらっしゃい〉だけが届く。
正宗は〈帰ったら結婚しよう〉と打ち、送らずに消した。二年後を約束するには、昨夜の一文が重すぎた。
彼は合鍵をマフラーで包み、搭乗券を係員へ渡した。強風で軋む橋を、一度も振り返らずに歩いた。