食べ尽くした空腹
「食事は残さず召し上がってください」
魔族街の宿〈満腹猫〉では、女主人パメラが鍋を振るう。角のある客には鉄分を、妖精には花蜜を、骸骨には香りだけのスープを出す。好き嫌いには厳しいが、誰も彼女の料理を残さない。毒沼育ちの客も聖獣も同じ長卓を囲み、食べ終えるころには喧嘩の理由を忘れている。宿の鍋は和平会議より役に立つと評判だった。
ゴブリン学者クォルは、古代食文化の調査で長逗留していた。深夜、厨房から鍋をかき回す音がして覗くと、床に巨大な口が開いていた。書物で見た災厄の挿絵と同じ歯列に、クォルは腰を抜かした。
無窮胃。世界を一口ずつ食べ、最後には自分の空腹すら飲み込めないとされる災厄だ。舌が棚をなめただけで、皿も壁も「食べられたこと」になって消えていく。次は眠る客を丸のみするつもりだった。食堂の柱が一本消え、天井が落ちかける。それでも二階からは満腹の寝息しか聞こえない。
パメラは慌てず、空の深皿を口の前へ置いた。
「そんなに空腹なら、一品だけ」
おたまで空中を一度すくう。
無窮胃の空腹そのものが、湯気を立てる黒いシチューになって皿へ落ちた。災厄は考えるより先にそれを飲む。すると自分の胃が自分の空腹を食べ、空腹が自分の存在を食べ、最後には口だけが口を飲み込んで、皿の中央の小さな染みになった。災厄が食べた皿や柱は、吐き出されたように元の場所へ戻った。
クォルは眼鏡を落とした。おたまの裏には、大魔法使い〈万象料理人〉の紋章。魔王軍の呪いを一鍋の煮込みに変えたという伝説の印だ。
「女将、あれは神代魔法では?」
「味見をしていませんから、料理ではありません」
パメラは染みへ塩を振り、布巾で拭いた。消えた棚と壁は湯気の中から戻り、割れた皿は重ね直される。客室では腹を鳴らしたオーガが寝返りを打っただけだった。
朝、クォルの前に黒いシチューが出された。恐る恐る見ると、普通の豆煮込みである。ひと口残そうとした彼へ、パメラは昨夜と同じ笑顔で皿を押し戻した。
「食事は残さず召し上がってください」