魔王城の和平酒
人類と魔族の和平調印は、一つの杯を回し飲みして成立する。
中立護衛ノエラが最初に杯を取ったのは、毒見のためだった。
人類代表エイヴァンは、杯へ〈聖銀毒〉を入れていた。魔族だけを焼く毒。魔族代表ボルガは、同じ杯へ〈黒角毒〉を入れていた。人間だけを腐らせる毒。
互いに相手だけが死ぬと思っている。
ノエラは二つが混ざった酒を飲み干した。杯を渡した給仕は、その場で膝をついた。両方の毒を見抜きながら止められなかったのだ。ノエラは責めず、ただ杯を高く掲げる。誰が先に目を逸らすかを見るように。
両代表が同時に身を乗り出す。彼女が人間なら黒角毒で、魔族なら聖銀毒で倒れる。どちらでもなければ、混合反応の爆発で消える。
杯の内側が白黒に明滅し、ノエラの身体から光と闇の煙が噴き出した。
それでも彼女は調印卓の中央で、杯を掲げたまま立っていた。最初に異常へ気づいたのはボルガだった。聖銀毒なら彼の指輪だけでも焼けるはずなのに、ノエラの掌には痕一つない。続いてエイヴァンも、黒角毒の脈打つ煙が彼女の胸で止まっているのを見た。
「なぜ死なない!」
二人の叫びが重なる。
次の瞬間、混合毒が第二反応を起こした。聖光と魔炎が柱になって天井を貫き、爆煙が大広間を覆う。兵士たちは武器を抜き、和平は一触即発になる。
煙が晴れる。
両軍の旗は爆風で裂け、窓の外の塔まで焦げていた。その中央でノエラは同じ姿勢で立っていた。彼女の左右にある調印書も、羽根ペンも無傷だった。
人間の槍兵と魔族の斧兵が、ほぼ同時に武器を下げた。最初に和平を守ったのは代表者ではなく、殺し合いを命じられる側だった。
「両国とも、相手を信じなかったのですね」
彼女は杯を伏せる。
「私の職〈境界守〉は、二つの陣営から攻撃を受けるほど強くなる。片方だけを守れば戦争になる。だから両方の害を、境界で等しく止めます」
監査用の和平水晶が二種の毒と爆発の威力を読み取り、ノエラの防御値を算出し始めた。数字は左右から増え、中央で衝突するたび倍になる。
水晶に亀裂が走り、最後の表示だけが宙に残った。
《防御値 測定不能》