魔王軍最後の隷属兵
魔王軍の門を守っていたのは、虎獣人バイランただ一人だった。
額には黒い隷属印。百万の兵が退いても、印が命じる限り死ぬまで戦う。
「勇者アシュを殺せ」
城壁の上で魔将が命じた。
バイランの大剣が唸り、地面ごとアシュを断つ。勇者は聖剣で受けたが、衝撃だけで背後の岩が砕けた。
「強いな」
「褒めるな。早く俺を殺せ」
「嫌だ」
二撃目。三撃目。
アシュは反撃せず、虎の額だけを見ていた。隷属印は肉体ではなく「敵」という概念へ命令を刻む術式。正面から消せば、バイランの記憶まで焼ける。
「なら俺の勇者印で上書きしろ!」
魔将が嘲る。
「主が替わるだけでも、救った気分にはなれるぞ!」
アシュは聖剣を鞘へ戻した。
「主を替えるために、ここまで来たんじゃない」
素手で大剣を受け止める。
刃が掌へ食い込んだ瞬間、アシュは自分を覆う勇者の称号を解除した。
世界の祝福が消え、彼は一瞬だけ「敵でも勇者でもない、ただの人」になる。
隷属印が標的を見失った。
その空白へ、アシュは二本の指を差し入れ、黒い文字だけを引き抜く。印は虎の額から細長い鎖となって抜け、聖剣の柄の中で燃え尽きた。バイランは額に手を当てる。次の命令を待つ痛みが、どこにもなかった。
「逃げろ、バイラン!」
魔将が叫ぶ。
虎は命令を聞かなかった。
しかしアシュにも従わず、大剣を地面へ置き、森の方角へ歩いていく。
「追わないのか?」
「自由にした相手を追えば、何のために斬らなかったのかわからない」
城門が開き、魔将の軍勢が雪崩れ出す。
祝福を解除したアシュは、まだ聖剣を抜けない。ひとりで門前に立った時、森から虎の咆哮が返った。
バイランが戻ってくる。
彼は置いていった大剣を拾い、アシュの前ではなく隣へ突き立てた。
「お前は俺の主ではない」
「知っている」
「だが、俺が選んだ戦場から退くな。今度は命令ではなく、俺の願いだ」
勇者の祝福が戻る。
二人は同時に武器を構えた。
城壁の上の魔将が何を命じても、虎の耳はもう動かない。
魔王軍最後の隷属兵が消えた場所に、誰にも所有されない最初の戦友が立っていた。