鹿香堂の残り香

 槙原嘉月は、病院の事務室で働いている。

 消毒液、紙、空調の乾いた匂い。一日を終えても鼻の奥に残り、自宅まで仕事がついてくるようだった。

 帰り道、「鹿香堂」という小さな店を見つけた。

 店主は雄鹿の白枝。角へ香りの見本札をいくつも掛け、人間の茶師が奥で湯を沸かしている。

「部屋の匂いを全部消せるものはありますか」

 嘉月が訊くと、白枝は首を傾け、札がかさりと鳴った。

「全部消すと、帰宅した人の匂いもなくなります」

「仕事の匂いだけ消したいんです」

「匂いは、線を引いて帰りません」

 白枝が選んだのは、檜と乾いた橙皮を合わせた短い香だった。

「十分で消える長さです」

「もっと長く焚く方が効くのでは」

「長い香りは、新しい仕事になります」

 店の試香席で一本焚いた。

 最初に檜の乾いた匂いが立ち、少し遅れて橙の明るさが来る。人間の茶師が焙じ茶を出し、白枝は向かいで前足を折った。

「何も考えない時間を作りたいんです」

「何も考えないのは難しい」

「では、どうすれば」

「茶が冷めるまで、茶のことだけ考える」

 嘉月は湯呑みを持った。縁の熱、茶葉の色、喉へ落ちる温度。仕事のことは何度も浮かんだが、そのたび橙の香りへ戻った。

 香が燃え尽きるころ、部屋の匂いは完全には変わっていなかった。消毒液の記憶も残っている。ただ、その上へ檜と茶の層が薄く重なった。

「消えてません」

「上書きではなく、帰る道を足しました」

 白枝が言う。

 嘉月は短い香を一箱買った。

 帰宅すると、食卓の小皿へ一本立て、湯を沸かす。炊飯器には朝のごはんが少し残っていた。檜、橙皮、温め直した米。仕事の匂いを追い出すのではなく、家の匂いを迎える。

 十分後、香は自然に消えた。

 翌週、鹿香堂へ空箱を持っていく。

「毎日使いましたか」

「疲れた日だけ。使わない日もありました」

「家の匂いが戻ったのでしょう」

 白枝の角で見本札が小さく揺れた。

 嘉月は次に、雨上がりの葉を思わせる香を一本だけ選んだ。

 店を出ると、紙袋から檜と橙の残り香が立つ。消えるものだからこそ、帰宅の合図になった。

 その夜、茶が冷めるまでの十分間、嘉月は窓を少し開けた。外の湿った土の匂いが入り、部屋の中でいくつもの一日が、争わず静かに混じり合った。