黒い指輪の承諾
婚姻届を出す前に、二人の影が指輪を交換する。
区役所の確認室で照明を一つにし、人間は背中合わせに座る。影の動きを直接見てはいけない。どちらかの影が指輪を持って部屋を出た場合、届出は三十日保留となる。誰の影が出たかを尋ねることは禁止されている。
守部悠生と枝折真帆は、交際六年目で婚姻届を書いた。
同棲も三年。喧嘩の原因は洗濯物とエアコンの温度くらいだった。二人とも結婚を望んでいた。ただ悠生には、婚姻届の「新しい本籍」という欄が、見知らぬ部屋のドアのように感じられた。父が家を出た年齢に、自分も近づいていた。
確認室には椅子が二脚、床の中央に黒い小箱がある。職員が指輪を一つずつ入れ、二人を背中合わせに座らせた。照明が点くと、影が足元から離れた。
振り返ってはいけない。悠生は真帆の呼吸だけを聞いた。床を擦る音、小箱の蓋、金属が一度ぶつかる音。次にドアが開き、閉まった。
職員は「保留です」と言った。誰の影が出たかは教えない。二人の足元には影が一つしか戻っていなかったが、どちらの形にも見えた。指輪も一つなくなっている。
帰宅しても、二人は尋ねなかった。規則に従ったというより、答えを聞くのが怖かった。食卓の照明では、一つの影が二人の間を行き来した。夜はベッドの中央に黒い線となって眠った。
保留期間の二十日目、悠生は父から届いていた未開封の手紙を出した。引っ越しのたび持ち歩き、読まなかったものだ。真帆は何も言わず、やかんを火にかけた。
手紙には謝罪も事情もなく、古い家の合鍵だけが貼られていた。裏に《返さなくていい》とある。悠生は笑ってしまった。自分が恐れていたものには、説明すら用意されていなかった。
「結婚したくないわけじゃない」
規則では影について尋ねられない。自分について話すのは自由だった。
「家族になると、いつか出ていく側になる気がする」
真帆は湯を止めた。
「私は、出ていく人と結婚するんじゃない。戻るかどうかを決める人とする」
三十日目、二人は再び確認室へ入った。背中合わせに座る。照明が点く前、廊下から黒い足音が近づいた。出ていった影が戻り、ドアの下から入ってきた。
交換は十三秒で終わった。職員が受理印を押す。誰の影だったか、最後まで教えられなかった。
帰宅後、二人の指にはそれぞれ指輪があった。区役所の受領証だけが一枚多い。余分な紙の中央に黒い手形が押され、その掌のくぼみに、父の古い合鍵が指輪のように丸められていた。