星印の買戻し
鋼月テクノロジーの経営企画室で、井桁史帆は投資家向け資料を作っていた。
赤字続きの会社は、保有特許を外部ファンドへ二十億円で売却し、十五億円の利益を計上する。決裁会議では「知的財産の完全な譲渡」と説明された。
史帆は契約書の価格欄に、小さな星印があることに気づいた。投資家資料では脚注の番号や記号を統一するのが彼女の仕事だった。意味のない星印は残さない。削ろうとしても、元データでは画像化されており、価格と一体になって消えなかった。
「この星は何ですか」
財務責任者はページ番号を確認した。
「印刷上の飾りだ」
「脚注がありません」
「不要な注記を削った」
史帆はデータルームから取得した契約原本を開いた。星印は別紙七へつながっていた。そこには、鋼月テクノロジーが一年後に二十二億円で特許を買い戻す義務を負う、とある。ファンドが負う技術リスクはなく、実質は特許を担保にした借入だった。
別紙七には、買戻し価格だけでなく、特許の使用料を鋼月側が払い続ける条項もあった。売った後も負担と利益の両方を会社が持ち、名義だけが一年間ファンドへ移る設計だった。
「別紙は失効した」
「双方の署名があります」
「条件が成立しなかった」
「成立条件は、二十億円の入金です。昨日入っています」
社長は財務責任者へ視線を向けた。
「買戻し義務は投資家に説明したのか」
「将来の選択肢として」
「義務と選択肢は違います」
史帆は別紙の文言を拡大した。〈shall repurchase〉。任意を示すmayではない。日本語要約では、その一語だけが「買い戻すことができる」と訳されていた。
財務責任者は若い史帆へ向き直った。
「翻訳の揺れで二十億の取引を壊すな」
「揺れているのは訳ではなく、決算です」
二十億円を借入金へ戻せば、会社は債務超過になる。
監査委員長は価格欄の星印を赤く囲み、承認書の署名ページを閉じた。
「別紙七を除いた決裁資料は不完全です。特許売却益の計上を停止します」
小さな星が、二十億円の数字を止めた。