おかえりを置く場所

 鴇沢文乃は七十三歳で、駅前の古い一軒家に住んでいる。

 葛城兼吉は四十六歳。長く勤めた会社を辞めたあと、家賃の安い部屋を探し、文乃の家の離れを借りた。

 食事は別、洗濯も別。互いの生活へ口を出さない契約だった。

 最初のころ、兼吉は帰宅しても声をかけなかった。

 離れの鍵を開け、そのまま入る。

 文乃も母屋から出てこない。

 玄関は別なので、困ることはなかった。

 ある冬の日、離れの給湯器が故障した。

 修理は翌日になる。

「今夜だけ、母屋の風呂を使いなさい」

 文乃が言う。

「ご迷惑では」

「湯は一人入っても二人入っても減らない」

「少し減ります」

「細かい人だね」

 風呂上がり、兼吉が離れへ戻ろうとすると、台所から味噌の匂いがした。

 文乃が豚汁を作っている。

「一杯、余る」

 どう見ても最初から二人分以上あった。

 兼吉は断らず、食卓へ座った。

 大根、牛蒡、里芋。生姜の効いた汁が、冷えた体へ広がる。

「会社を辞めてから、夕飯を誰かと食べるのは久しぶりです」

「私は毎日、テレビと食べてる」

「会話します?」

「天気予報には返事する」

 その夜から、ときどき母屋で夕飯を食べるようになった。

 毎日ではない。文乃が多く作った日、兼吉が総菜を買いすぎた日。

 互いに理由をつけ、同じ卓へ座った。

 春、兼吉が帰宅すると、母屋の灯りが消えていた。

 文乃は町内会の集まりで遅くなると聞いていたのに、家全体が暗いと妙に落ち着かない。

 兼吉は離れへ入り、しばらくしてまた外へ出た。

 母屋の玄関灯だけを点けた。

 九時すぎ、文乃が帰ってきた。

「ただいま」

 庭へ向かって何となく言う。

 兼吉は離れの窓から、

「おかえりなさい」

 と返した。

 二人とも少し驚いた。

 翌日から、帰ってきた方が「ただいま」と言うようになった。

 離れからでも、母屋からでも。

 返事が聞こえない日もあるが、灯りがついていれば十分だった。

 夏、文乃は冷やした麦茶を二本、縁側へ置いた。

 兼吉が仕事探しから戻り、「ただいま」と言う。

「おかえり。今日は暑かったね」

 それだけの会話で、家の中の空気が少しやわらかくなる。

 二人は親子ではなく、夫婦でもない。

 契約書には大家と借主と書いてある。

 それでも玄関灯の下には、帰った人へ渡す言葉が一つ置かれていた。

 縁側には麦茶と蚊取り線香の香りが混じり、二本のコップへ夕方の光が残った。

 家族とは、血の名前より先に、「おかえり」を置いておける場所なのかもしれなかった。