おやすみなさいませ
王女アマリリスの寝室で、侍女シオンは毎晩同じ言葉を残した。
枕をふくらませ、窓の錠を確かめ、読みかけの本へ栞を挟む。幼い頃から仕えているのに、自分の昔話は一度もしない。王女にとって彼女は、眠れない夜に必ずいる静かな人だった。
戴冠式前夜、アマリリスは目を閉じたまま起きていた。
天蓋の上から男が一人降りる。
足音も気配もない。黒い仮面には、滅びた暗殺者組合の紋章。男は寝台へ刃を向けず、まずシオンへ囁いた。
「初代《夜母》。姫を殺せば、あなたは裏へ戻る」
シオンは毛布の端を整えていた。
「お嬢さまはお休みです」
「なら、夢のまま送ってやる」
男が踏み込む。
シオンは毛布を一度、払った。
柔らかな布がふわりと浮かび、燭台の火を隠す。
暗くなったのは一瞬だった。
再び火が見えた時、男はいない。
アマリリスは薄く開けた目で、天蓋内側の金糸に映る出来事を見ていた。
シオンは迫る刃を栞で受け、男の仮面を指先で外す。毛布が落ちるより先に、首の後ろへ一触れ。かつての弟子らしい男は眠るように崩れ、彼女は秘密通路へ滑らせた。
そこには死体処理場ではなく、王都警備隊へ通じる搬送籠がある。シオンは男の胸へ組合の名簿を差し込み、証拠ごと籠を下ろした。殺す必要すらない。それが、伝説を超えた者の余裕だった。
床へ落ちた刃を拾い、栞の傷んだ角を切り揃える。
足跡を布で消し、天蓋の揺れを止め、窓の錠をもう一度確認する。敵が持ち込んだ夜香の匂いには、王女の好きなラベンダーを一滴重ねた。
「シオン」
アマリリスが目を開ける。
侍女は驚かず、寝台脇へ戻った。
「夜母というのは、あなた?」
「怖い夢をご覧になったのです」
「夢なら、手を握っていて」
少しの沈黙のあと、シオンは手袋を外した。
その掌には無数の古い傷がある。王女は何も追及せず、その手を握った。冷たいと思っていた指は、思いのほか温かい。
廊下の遠くで、警備隊の鐘が一度鳴った。
寝室には刃も侵入者も残らず、読みかけの本には直された栞が挟まっている。
シオンは灯りを落とし、今度こそ王女が目を閉じるまで傍らにいた。
そして同じ言葉を、命を守る誓いへ変えて囁いた。
「おやすみなさいませ」